その4 パーソン論


 パーソン論とは、簡単にいうと(簡単にいっていいのかよ、という気はするけれど、まあしかたないので簡単にいうと)、「生物学的な意味での人間」と「道徳的主体として生存権をもつ「ひと(パーソン)」」をわけて考える思想のことです。

 パーソン論以前の中絶議論では、胎児が生物学的に見て人間といえるかどうかという問題に焦点があたっていました。

 中絶反対派はある段階に至った胎児は手や足をそなえているので既に人間であり、だから中絶は赦されないと主張する。ぎゃくに中絶賛成派は、いくら手足がそろっていても大脳が発達していないので胎児は人間とはいえないと主張する。

 とにかく胎児が生物学的な意味で人間といえるか否かによって中絶の是非は決定されると考えられていたのです。パーソン論の先駆者であるM・トゥーリーは、この前提そのものを疑いました。

 かれは中絶の是非を決める決定的なポイントは、胎児が科学的にホモ・サピエンスの一員であるか否かという生物学的問題にではなく、ある胎児が生存する権利をもっているか否かという道徳的問題にあると考えました。

 かれは生存する権利をもつ主体のことを「パーソン」と呼びます。ということは、中絶が赦されるか否かは、「ある胎児が生物学的に人間であるか否か」によってではなく、「ある胎児が道徳的にパーソンであるか否か」によって決定されると考えることができます。

 それでは、胎児がパーソンであるかどうか、どのようにして決めればよいでしょうか。トゥーリーはその線引きを「持続的自己の概念をもつこと」に求めました。

 持続的自己の概念を持たないものは生きつづけることを欲求することもできず、したがって生存の権利を主張することもできないということです(ここらへん、パーソン論の概要を相当はしょって要約している上に、正確に要約できているかどうかさだかではないので、興味のある方はじぶんで調べてみてください)。

 さて、そういった「持続的主体としての自己の概念」をもち、そのような実体が自分であると信じていること=「自己意識要件」を満たしている主体のみが生存する権利をもっているとすると、胎児がどの時点でそれをそなえることになるかが中絶論のあらたな焦点となります。

 受精卵が自己意識要件を満たしていないことは明白です。そして成人した人間が自己意識要件を満たしていることもまた明白です。それでは、受精卵から成人にいたる過程のどこで人間は自己意識要件を満たすことになるのでしょうか?

 トゥーリーはこの問いに明快にこたえてはくれません。その代わり、生まれたばかりの赤ちゃんが「持続的自己の概念」をもたないことは明白である、と考えます。

 つまり、生まれたばかりの赤ちゃんは自己意識要件を満たしておらず、パーソンではない。従って、生存の権利を主張することもできないということになります。こうして、胎児殺しはおろか、嬰児殺しまで正当化されることになってしまうのです。パーソン論恐ろしい子