その3

 「TSR」の世界は、一貫して「ひとが死ぬ世界」である。それも極端にあっさり、あたりまえのようにひとは死んでいく。個人的には、やりすぎだと感じたくらい。

 この世界では「死」があまりにも趣味的に、あっさりと描かれすぎている。それは製作スタッフにとっての「ひとが死ぬ世界」のリアルだったのかもしれないが、結果的に作品内のリアリティを薄っぺらにする結果になったと思う。

 そしてあまりにもこれまでの「ひとが死なない世界」との落差が大きすぎた。過剰なまでにあっさりとひとが死んでいく世界と、なにがあっても死なない世界。両者とも極端すぎて、なめらかにつながっていないように思えたのだ。

 京アニ謹製の高度なアニメーションが、個人的に「いまいち」のレベルにとどまったのは、ひとえにその理由による。

 たぶんこの「ひとが死ぬ世界」と「ひとが死なない世界」の区分は、ペトロニウスさんが「魔法先生ネギま!」を評して言う「直線的時間概念(非日常・バトルモード)」と「回帰的時間概念(日常・学園モード)」という概念と対応するものだろう。回帰的時間概念のなかではひとは死なないのだから。

 あるいは、この両者を、現実を受け入れた世界と現実を拒絶した世界と言い換えてもいい。「ひとが死なない世界」の回帰的時間概念のなかでは、登場人物はほとんど永遠に学園物語をくりひろげることができる。

 既に書いたように、「フルメタ」は最終的にそれを否定し、「ひとが死ぬ世界」のリアリティを選び取ったのだが、この両世界の衝突こそが、ここ何年かのアニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベルなどでの大きなテーマだったのではないかと思う。

 それはたとえば「Fate/stay night」と「Fate/hollow ataraxia」との関係にも見ることができる。「Fate/stay night」では多くのキャラクターが死んでいくが、かれらは「Fate/hollow ataraxia」で何事もなかったかのように再登場する。

 作中では一応、その理由付けがなされているが、これはあきらかに「あのキャラクターたちともう一度会いたい」というユーザーサイドの希望を叶えたものと見ていいだろう。

 「Fate/hollow ataraxia」はおもしろかったけれど、こういったファンディスクには、ぼくはやっぱり批判的にならざるをえない。なぜなら、このような形での続編展開を認めるかぎり、「ひとが死ぬ世界」である本編のなかでなにが起こっても、続くファンディスクのなかで逆転される可能性がのこるからだ。

 それでは本編が茶番じみてくる。やはりこのふたつの世界は究極的には両立できず、さいごにはどちらかを選ばなければいけないのではないか。

 あるいはまた、ふたつの世界のこういった関係性は、その作品のユーザーの時間を進めようとする欲望と、時間を止めようとする欲望の関係性でもある。時計の針を進めたいか、止めたいか。本当のところ、みんなどう思っているんだろう。それを知りたい気はする。

 おしまい。