その1

 「フルメタル・パニック! The Second Raid」を全話見て、ついでにテッサ主演のOVAも見る。

 いま話題の京都アニメーションの製作だけに、非常にクオリティは高い。テレビアニメとして、これ以上に質が高い作品はめったにないだろう。でもなあ、どうもシナリオに納得がいかないんだよな。

 ぼくはこの作品のことをあまりくわしく知らない。だからどこか間違えているかもしれないが、「フルメタル・パニック!」という作品は、ふたつの世界から成り立っているように思う。簡単にいってしまえば、シリアスの世界とコメディの世界である。

 アニメもそうなのだが、そもそも原作小説からしてふたつのシリーズに分かれている。「戦うボーイ・ミール・ガール」に始まる長篇シリーズと、「放っておけない一匹狼?」に始まる短篇シリーズだ。

 この長篇と短篇の分離は、富士見ファンタジア文庫の常套手段ともいうべきもので、「フルメタ」だけの特色とはいえないが、「フルメタ」ではかなり自覚的にふたつの世界をコントロールしている。

 登場人物からして違うし、作品の雰囲気も違う。まあたまに混じることもあるのだが、このふたつのシリーズはほとんど同じ世界を舞台にしたべつの作品だといっていいだろう。

 この二大世界の性質にかんしては、id:hajicさんの「ひとが死ぬ世界」と「ひとが死なない世界」という区分が的確だと思う。

 ようするにコメディ世界では、どんなに大事件が起こっても決してひとは死なないということ。仮に目の前で爆弾が爆発しても、髪の毛がちりちりになる程度で済む。それに対し、シリアス世界で同じことが起こったら、その人物は死んでしまう。

 つまりシリアス世界とコメディ世界は、ただ単に雰囲気が異なっているだけではなく、リアリティの寄って立つ基準点そのものが違うのである。

 これはなにも「フルメタ」だけの話ではなく、コメディとシリアスを分かつ決定的なラインは、その世界でひとが死ぬことがあるかどうかにかかっている気がする。ひとの生き死にを扱ってしまったら、その話はもはやコメディでは済まない。

 もしだれかひとが死んでもそれをジョークの種にしているようなら、その世界はそれはもはや単なるコメディとはいいがたいブラックユーモアの世界になるだろう。

 そういえば、少し前の「涼宮ハルヒの憂鬱」で、殺人事件が起きてしまう話があった。これはコメディではあってはならないことである。だからまあ、最終的には事件そのものがコメディに回収されてしまうのだが、製作スタッフはこの話を前後篇に分け、しかも前篇と後篇のあいだにまったく関係ないエピソードを置くというトリッキーな構成を用いた。

 このとき、視聴者はたんに事件の真相を先延ばしにされるだけではなく、シリアス世界とコメディ世界の落差に取り残されてしまうことになるのである。すごいや、京アニ

 ん、「フルメタ」の感想のはずなのになんでこんな話になっているんだ? 次回に続く。