ぼくとひかりと園庭で

ぼくとひかりと園庭で

 石田衣良初の児童書。

 こどもたちのために書いたということだが、表現の平明さにもかかわらず、その内容は全くこども向きではない。幼いこどもたちが読んでもそのすべてを理解することはできないだろう。

 中学校の教科書に載っていた梶井基次郎の「檸檬」や、中島敦の「山月記」が、失敗と挫折を積み重ねたいまになって胸に染みるのとおなじような意味で、これはおとなにこそ読まれるべき本だ。

 しかし、だからといってこどもが読むのにふさわしくない本だとは思わない。ぼくらがこどもの頃に読み、いま記憶にのこっている本の数々も、その頃のぼくらの理解を越えたものではなかっただろうか。

 たとえすべてを把握することができなくても、強烈な毒のひとしずくが胸にのこり、消せない印象を刻むことがある。そういう意味で、この本もこどもたちに読ませても良い本だと思う。石田衣良の描くこどもは、なんだかあまりにも大人びていて、幼さを感じさせないのだが。

 この物語の主人公を務めるのは、わずか六歳で運命の片割れと出会ってしまった恋人たち。かれらは月光の園庭で、親友の少年のために「三つの試練」をくぐり抜けることになる。

 もしかれらが試練を乗り越えられなければ、親友は十八歳のとき幼稚園に押し入り、その場のこどもたちを殺して自分も自殺することになるのだ。

 だから、これはテロリストの物語である。テロリストとは、暴力ということばでこの世界のありかたに異を唱える人間のことだ。かれらはナイフで、爆弾で、旅客機で、この世界を否定し、打ち砕こうとする。

 この世界に慣れたひとからみれば、それは赦されるべからざる秩序の破壊である。だが、テロリスト本人の視点からみれば、すべては正当な復讐なのだ。

 この物語のなかでこども殺しの罪を背負おうとする少年のことばは、なんだか胸に迫るものがある。ぼくにはこの少年のきもちがわかると思う。

 あるいはそれは、ある種のひとには嫌悪しか感じさせないよわさかもしれない。しかし、ぼくは、この世界を砕いてしまいたいとねがう心を、たんなる幼さと切り捨てられない。じっさいにそういう想いから、道が砕かれ、ビルが倒されてきたのが人間の歴史ではないか。

 そう、この世界はまちがえている。たぶん、その不条理に慣れ、うまく適応していくことが人間的成長というものなのだろう。しかし、だれもがそうできるわけではない。あるものは世界のひび割れに飲み込まれ、恨みと憎しみからほかの人間をそこにひきずりこもうとする。

 それを悪と呼んでもいい。だが、その悪の根底にあるどす黒い怒りから目を背けても、なにも変わりはしない。だからこの物語のなかで「三つの試練」を乗り越えたこどもたちのように、それと向き合う必要がある。

 とはいえ、現実には、ぼくらは試練に挑戦することすら赦されないかもしれない。そしてきょうも世界のどこかで害意が爆発する。テロリスト誕生の瞬間だ。

 そういった過酷な現実と対決するために、物語は、ある。