ぼくの「電波男」論はわかりづらいようなので、簡単にまとめておこう。

 まず「電波男」がどういう本なのか。ぼくが思うに、それはナルシシズムを薦めた本である。

 現実世界では、個人の自己愛は決して十全に満たされることがない。なぜなら、かれの欲望は必ずどこかで壁にぶつかり、ルサンチマンが発生することになるからである。これは現実世界のどうしようもない性質だ。

 しかし、虚構の世界は違う。虚構世界では、どんな望みも欲望も叶えることができる。そんな幸福な世界において、架空の美少女に愛されるという形で自己愛を満たすこと、それがすなわち「萌え」である。

 現実世界では、恋愛には格差があり、差別があるが、虚構世界にはそんなものはない。そこではすべてが平等なのだ。

 だから、この際、不平等な現実世界は捨て去り、虚構世界で存分に自己愛を満たそう! それこそ真の純愛であり、宗教なき時代の「ひとりだけの宗教」だ。「電波男」とは、そう主張した本だといえる*1

 しかし、とここでぼくは茶々を入れる。本当に虚構世界とはそんな理想的な存在なのだろうか。

 たしかに、ただユーザーの望みを叶えるためだけに存在するような作品もあることはある。本田が賛美する一部の美少女ゲームがそれだ。ここでは、ユーザーの望み――いろいろな美少女キャラクターに思う存分愛されたい!――は絶対的に叶えられる。

 こういった作品は本当の意味で「他者」とはいえないだろう。なぜなら、それを体験してもユーザーの自我は揺らがないからである。こういった作品は、いうなれば「親切な他者」とでも呼べるかもしれない。

 しかし、すべてのフィクションがこのようなものだとは限らない。ある種のフィクションは、もっと強烈な「他者性」をそなえている*2

 それはユーザーの望みとは異なる展開を見せることで、かれの自我を揺さぶり、ときに人生観すら変えていく。そういう意味では、じつは現実もフィクションも変わりはない。現に本田も「新世紀エヴァンゲリオン」において、そういう体験をしている。

 しかし、本田はあくまでこの「他者の到来」を拒絶する。それはかれの自我を揺るがし、傷つけるからだ。だから、かれにとってのフィクションとは、そういった「他者性」が注意深く取り除かれた作品だけなのである。

 それでは、「他者」を認める世界と、あくまで「他者」を認めずナルシシズムに耽る世界、どちらが好ましいのだろうか。どちらともいえない、とぼくは考える。

 しかし、少なくともぼく自身は「他者」なしには生きていけない。なぜなら、「他者」のいない世界、それはなんの変化も、成長も、刺激も、驚きもない世界だからである。

 たしかに傷つくことはないかもしれないが、苦悩を経て自分が変わってくよろこびにも乏しい。ぼくはそんな世界を退屈だと思う。ただ、問題はあくまで個人の選択である。どちらを選ぶのも、そのひとの自由だ。

 とりあえずいまの時点では、そんなところかな……。

*1:萌える男」の論旨が混ざっているが、まあいいだろ。

*2:もちろん、すべては程度問題であって、はっきり区別できるわけではない。