生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想

生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想

 生命倫理学と似て非なる学問「生命学」について綴られた本。その内容は、サブタイトル「脳死フェミニズム・優生思想」から窺えるだろう。ちなみに定価3800円。少部数の本って、高いよなあ。

 さて、この本のなかに、このような記述がある。

 「自分が会いたくないような人間に出会う」ことや、「自分が経験したくないような出来事がおきる」ことは、レヴィナスが言うところの〈他者の到来〉を意味している。〈他者の到来〉とは、まったく思いもかけないものごとが、思いもかけないような形で、私に何かの返答を迫るような勢いで、私を襲ってくることである。〈他者の到来〉を受け止めるときの実存感覚が、第二章で私が述べた他者論的リアリティであり、〈揺らぐ私〉のリアリティである。すなわち、他者がやってきて、私を襲い、いままで確かなものだと思っていた様々なものごとを、揺るがせ、私をはげしい動揺に追いやっていく。そして私は謎に直面し、頼るものを失い、見たくないものに直面させられ、おろおろし、それをきっかけとしてみずからの生命観や人生観を変容させていく。このような〈揺らぐ私〉のリアリティを出発点として、私は、思いもよらなかった何者かと出会っていくことができる。

 難解な哲学を理解できるほど上等な頭はもっていないので、レヴィナスのいう「他者」とぼくのいう「他者」とが、どのくらい似ているか、あるいは違っているかはわからない。しかし、ここに書かれているものこそまさに、ぼくが考える「他者」である。

 ぼくはこのような「他者」と「出会っていく」ことで「みずからの生命観や人生観を変容させていく」ことを希望する。

 もちろん、「謎に直面し、頼るものを失い、見たくないものに直面させられ」ることは心地よい体験とはいえない。だから、臆病なぼくは、「他者」との遭遇を忌避し、そこから逃げ、安全な場所にひきこもりもする。

 しかし、それでもなお、ぼくはひとりぼっちでは生きていけない自分に気付く。そしてまたあたらしい本をひらくのである。

 それでは、そのような意味で「他者」と「出会う」こととは、具体的にはどのような体験を指しているのだろうか。

 羅川真里茂の「ニューヨーク・ニューヨーク」には、主人公のケインが自分がゲイであることを両親にカミングアウトし、恋人メルをつれて帰郷する場面がある。

 ケインの母エイダは、子の選択を受けいれることができず、激しく苦しみながらケインとぶつかりあう。そうして傷つき、迷い、悩みながら、それでも彼女は次第に息子に理解を示すようになっていく。

 「少女時代ジョージに会ったとき考え方の違いに驚いたわ 仲の良かった友人達 変わり者のクラスメイトにも驚かされた 出会った人達は皆そのヒューマニズムを私に与えてくれる 私はケインを…息子を愛してるわ だからあの子の愛する者を奪うのはあの子を苦しめる事になる メル…あの子はケインをずっと大切にしてくれるかしら お願いよ ケインの事見守ってあげて バカな母親だと思ってもいいわ ケインがあなたを愛し あなたがケインを愛し続ける限り 私はあなたを愛する努力をするわ…」

 これこそまさに「謎に直面し、頼るものを失い、見たくないものに直面させられ、おろおろし、それをきっかけとしてみずからの生命観や人生観を変容させて」いった光景だと思う。

 ケインがゲイでなかったら彼女は悩むことも苦しむこともなかったかもしれない。しかし、その代わり、自分自身を見つめ直し、あたらしいヒューマニズムにめざめることもなかっただろう。

 こういった「他者」との「出会い」を拒絶した世界、ナルシシズムの楽園を、ぼくはべつに否定しない。人生の一局面において、そのような世界にひきこもることが必要なひとも多いのかもしれない。

 しかし、ぼく自身は「他者」のいない世界に耐えられないと思う。よしあしの問題ではない。自由意志にもとづく選択の問題である。

 たしかに多くのエンターテインメント作品は、ドラえもんのポケットのように、読者・視聴者の願望を投影する装置に見える。しかし、そういった作品であるからこそ、そこに「他者」が立ち上がってくるときには、強烈なショックとインパクトがある。

 そういった作品は、エンターテインメントとしては常識はずれな「問題作」だといえるだろう。ぼくは一面で、そんな「問題作」たちとの「出会い」を求めて、物語を味わっているといえる。