あとがき


 そういうわけで、「いまさら「電波男」について考えてみる」これにて完結です。

 連載のかたちを採ったため、書きのこしてしまったこともあるし、多少論旨があいまいになった個所もあるかと思います(多少じゃないかも)。

 いずれ手直ししてべつのかたちにまとめたい気もします。しかし、とりあえずいまはこれがぼくが「本田透」や「オタク」について語れることのすべてです。

 「オタク」であるということはどういうことなのだろう、という疑問はむかしからあって、それは「自分は「オタク」なのだろうか」という疑問とワンセットでした。

 いまここにたしかにある「わたし」と「オタク」のイメージとをイコールで結べなかった。「ああ、自分はオタクなのだな」と一方で考えても、どこかに「××だからオタクじゃない」といいたくなる気持ちがのこる。

 いまにしてみれば、それも当然のことであるように思えます。だって、「わたし」とは、いくつかの概念の集合体というようなものではありえないから。

 「男性」「27歳」「日本人」「オタク」「めがね」ヘテロセクシャル」「身長××センチ」「体重××キロ」といった情報をいくら集めたところで、「わたし」はできあがらない。そういったことばからこぼれ落ちるところに、「わたし」の個性はある。

 「オタク」であり、「オタク」ではなく、「男性」であり、「男性」ではなく、「日本人」であり、「日本人」ではない、どんなことばでも正確にはあらわしきれない「わたし」。

 その「わたし」と向き合うところから、すべては始まるのではないだろうか、といまは思います。しんどい話だけれども、そのプロセスを省いて、「わたし=オタク」、「わたし=キモメン」といった虚構ですべてを処理していくなら、やがてすべては歪みはじめるのではないでしょうか。

 さて、余談ですが、全文を書き終わったあと、メールでこのエントリを教えてもらいました。

 「萌えオタクには「愛したい願望が強い派」と「愛されたい願望が強い派」の二派に結構別れるんじゃないかなぁ」とありますが、もしそうならぼくは「愛したい願望が強い派」じゃないかな、と思います。

 たとえば「ネギま!」の刹那とか、わりと好きなキャラクターですけど、刹那とデートしたいとかそういうことは考えませんから。これはフィクションを自分を主役にして受けいれるか、それとも遠い世界の出来事として受け止めるかというスタイルの差にも関係してくるようです。

 本田さんはあきらかに「愛されたい願望が強い派」ですから、ぼくとは派閥が違うということになるでしょうか。こう考えてみると、おなじキャラクターにおなじように「萌え」いても、その内実はまったく違うということがありえるのかもしれません。

 というわけで、今回はこれでおひらきです。「Something Orange」史上最も長いエントリになりました。つぎはなにを書こうか考えています。おもしろいエントリになればいいのですが。