その22


 この不平等な世界で、それでもひととひととを結ぶ儚い「緒」。それは作品とユーザーの関係にも見出されるものです。

 本田さんが耽溺する美少女ゲームの世界はいかにも閉鎖的ですし、それを愛する行為はいかにもナルシスティックです。しかし、その向こうにはそれを生み出した「他者」がいる以上、完全に「緒」が切れてしまっているわけではありません。

 本田さんは「萌え」とは「個人による信仰」「ひとりだけの宗教」なのだといいます。しかし、ぼくはそうは思わない。あるゲームをあそぶとき、ひとはけっして「ひとりだけ」にはならない。そこに「他者」の思いとねがいがあるからこそ、生み出されたキャラクターに「萌える」こともできるのだと思うのです。

 先述したとおり、そこに生み出されたキャラクターは、プレイヤーの欲望をあざとく反映しているし、本当の意味での「他者」とはいいがたい。しかし、それでもなお、キャラクターはプレイヤーの空想のなかの存在ではない。つねにプレイヤーを上回る可能性を秘めている。だからこそ愛しい。

 何枚かの「絵」と「文章」の組み合わせに過ぎないものに、ぼくらは「他者」を見出し、愛する。萌える。ならば、その愛が、「萌え」が、「自分を愛してくれる存在だから」という次元を超えることもありえるのではないでしょうか。

 そのキャラクターがどれだけ自分を裏切っても、なお愛情を憶えるということも、ありえると思うのです。そうなったキャラクターは、もはや記号ではなく、「生きている」存在になったといえる。

 ぼくはそういった生命をもったキャラクターと出会いたいという思いを捨てきることはできない。だから、あたらしい作品をもとめつづける――それが、ときに失望につながることを知ってはいても。そう、ぼくも「緒」を切りたくないと思っている。

 もし、あるひとがすべての漫画もアニメもゲームも捨てて、じぶんひとりだけの空想の世界にひきこもってしまったら、そのときこそ「緒」は切れた、といえるかもしれない。それもそのひとの自由な選択ではあります。ぼくはそういった選択を非難しようとは思わない。それはそれで、ひとつの楽園のかたちではあると思う。

 でも、やはりひとは他者が生み出したキャラクターにこそ「萌える」ものなのではないかと思うのです。そして、そういったキャラクターを愛することで、満たされるものだと。そう、「萌え」とは、「愛されること」であると同時に「愛すること」であるのではないか。

 たしかにそこに生まれる関係性は、それを関係性と呼べるとしても、ふつうの人間と人間とのものではありえないでしょう。しかし、ここは本田さんと同意見なのですが、ぼくは現実がすべてだとは思わないのです。そしていつもリアリズムが最高とはかぎらない。

 うつし世は夢、夜のゆめこそまこと。虚構は素晴らしい。ただ、それは虚構が現実より生易しいからではなく、むしろ現実よりあざやかだからではないか。ぼくはそう思います。

 それがぼくの信仰です。


おしまい