その20


 ひとは「オタク」という仮面を被りたがるといい、同時に「オタク」でないと思いたがるという。ぼくの発言は矛盾してみえるかもしれません。

 しかし、こういうことなのではないでしょうか。ひとは本当はじぶんが「オタク」というだけの存在ではありえないことを知っていながら、ときに「オタク」という仮面をかぶりたがるものである、と。

 ひょっとしたら、外からみればぼくは「オタク」以外のなにものでもないかもしれません。服装とか、髪型とか、言動とか、行動とか。しかし、それらがどれだけ「オタク」らしかったとしても、ぼくは「オタク」である以前にぼくなのです。

 ぼくはこう思います。「オタク」であれ、「キモメン」であれ、あるいは「男性」や「女性」であれ、「日本人」、「中国人」、「韓国人」、「インド人」であれ、「ゲイ」であれ「レズビアン」であれ、「オタク」であれ「ニート」であれ「ヒッキー」であれ「DQN」であれ、「キモメン」であれ「イケメン」であれ「負け犬」であれ、そういったことばは決してひとひとりを十全にあらわしきることはできないのだ、と。

 金城一紀の小説「GO」の主人公はじぶんを差別した少女に向けてこう喝破します。

 別にいいよ、お前らが俺のことを在日って呼びたきゃそう呼べよ。おまえら、俺が恐いんだろ? なんかに分類して、名前をつけなきゃ安心できないんだろ? でも、俺は認めねえぞ。俺はな、ライオンみたいなもんなんだよ。ライオンは自分のことをライオンだなんて思ってねえんだ。お前らが勝手に名前をつけて、ライオンのことを知った気になってるだけなんだ。それで調子に乗って、名前を呼びながらちかづいてきてみろよ、お前らの頚動脈にとびついて、かみ殺してやるからな。わかってんのかよ、おまえら、俺を在日って呼びつづける限り、いつまでもかみ殺される側なんだぞ。悔しくねえのかよ。言っとくけどな、俺は在日でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。俺を狭いところに押し込めるのはやめてくれ。俺は俺なんだ。いや、俺は俺であることも嫌なんだよ。俺は俺であることからも解放されたいんだ。

 いかにも青くさいせりふ。けれど、ここには真実のひびきがあるように思います。つまり、ぼくらは本当はみな、名無しのライオンなのではないか。

 他人はそのライオンにいろいろな名前をつける。オタクとかゲイとか在日とかニートとか。そして、そういう名前で呼ばれつづけていると、いつしかライオンもじぶんの正体を忘れて、その名前をアイデンティティの中核にしてしまう。

 でも、本当はライオンがライオンであることに変わりはないのです。この世に「オタク」なんて人間はいない。どんな定義も、個人を正確に表現しきることはできない。だから、まずは名前や定義から脱却し、自分を解放するところから始めるべきではないでしょうか。