その19


 もちろん、ぼくだって、そこにたしかな答えをあたえることはできません。そもそも簡単に答えを出せるような問題なら、いつまでもいさかいが続くことはないわけで、「正しい答え」などないたぐいの難問なのでしょう。

 本田さんはフィクションに救いを見出しさえすればルサンチマンは解消できるといいますが、本当はそんなことはない、一時的にごまかすことはできても、劣等感や差別意識そのものが消えるわけではありません。それは本田さん自身の態度が証明しています。

 そういうわけで、このコラムを最後まで読んでも問題がすっきり解決する解答はなにも出てきません。ただ、ひとついえること。「少しでもよくしたい」と本気で思わないかぎり、なにひとつよくなってはいかないだろうということです。

 本田さんは、「オタク」を理解しない世間を怒ってみせる。「キモメン」と見下す女性たちを嫌ってみせる。でも、ぼくは思うのです。本当はオタクだと見下されることやキモメンだといわれることが嬉しいのではないか、と。

 「だれにも理解されないわたし」であることは決して苦痛なばかりではないと思う。じぶんは偏見と無理解にさらされていると思っているかぎり、非はつねにあいてのほうにあることになるのだから。

 しかし、本当にそうなのでしょうか。ぼくにはかならずしも「オタク」を見下す側にすべての責任があるとは思えない。もっと服装を小奇麗にしろとか、リュックサックを持ち歩くなといった次元の話をしたいわけではありません。

 そうではなくて、本当は「自分は差別されている」という認識にすがりたがっているのはとうのオタク自身なのではないか、ということです。差別されている、理解されていないという思いがもつ安心感。それにひたりたがっている心理があるのではないか。

 いや、ひとごととしていうのはよしましょう。ぼくにはある。たとえだれかから非難されたとしても、それは「自分」が非難されているのではない、「オタク」という虚構が非難されているにすぎないと思いたがる心理。「オタク」という仮面をかぶっているかぎり、本当の自分は傷つかないでいられるのです。

 しかし、そもそも「オタク」であるとは、どういうことでしょうか。こういう皮肉な定義が考えられます。オタクとは、「あなたはオタクですか?」と訊かれたとき「じぶんはオタクじゃない」と答えるものである、と。

 つまり、「オタクはオタクであることを認めたがらない」ということ。この理屈はしばしば「オタクのくせにじぶんがオタクであることを認めないやつ」に対する皮肉として使用されます。

 しかしそれだけ多くのひとが「オタク」というレッテルと無二の存在である自分自身をイコールで結ぶことに違和感を感じているということでもあるのではないでしょうか。すくなくともぼくには違和感があるし、あって当然だと思っています。ぼくは「オタク」であって、同時に「オタク」ではない。