その18


 ひとがじぶんの容姿にこだわることについて、中島梓は著書「コミュニケーション不全症候群」で次のように書いています(余談ですが、この本は「電波男」と共通点が多く、ある意味で先駆的業績といえると思います。「電波男」が好きなひとにはおすすめ)。

 スリム、つまり無駄のないこと、若いこと、美しいこと、健康であること、新品であること――それはすべて、いってみれば人間の価値ではない。少なくとも自由で誇りある人間であるために、若かったり、痩せていたり、美しかったりすることは別に必要条件ではない。それは奴隷の、商品の価値である。売り買いされる商品、品物であるからこそ、新品のほうがセコハンよりも、新しいほうが年式の古いものよりも、性能のよいものほうがわるいものよりも、見た目のよいもののほうが悪いものよりも、高く売れる。高い定価がつけられ、皆に欲しがられ、よく売れるのである。女性、いや、もはや女性だけではない、男性も、この社会の基本原理に従い、この共同幻想に与している個人はすべて、もはや人間であるのではなく、商品として存在しているにすぎない。それがこの社会で続出しているさまざまな異変、異常の真の原因であるのは、すでに明らかである。

 そう、たしかにその通り、「少なくとも自由で誇りある人間であるために、若かったり、痩せていたり、美しかったりすることは別に必要条件ではない」。しかし、現実にひとはそういったことに簡単に左右されます。

 きれいごとを吐くなら、こんな風にいうことはできるでしょう。たとえ体重が2,3キロ増えたとしても、それで人間としての価値が変わらないだろう、と。

 たしかにそんなことで「人間としての価値」は変わらない。変わるはずもない。しかし、商品価値は確実に変動する。そして自分自身の「価値」と「商品価値」に区別をつけられるひとはいまとなっては少数派に属するのではないでしょうか。

 いったいこの社会で、優れた商品であること以外にどんな価値を見つければいいというのでしょうか。

 本田さんは恋愛というレイヤーをとりあげましたが、就職でも受験でもおなじことがいえます。この社会では「商品価値」の低い人間はそれなりのあつかいしか受けない、ということ。

 自分自身をより優れた商品に磨きあげたものだけが「勝ち組」となっていく。そして「負け組」にふりわけられた人間たちは、さらに恨みと憎しみをつのらせていく――。

 本田さんの理論は、そんなどうしようもないルサンチマンの螺旋からひとを解放しようとしているようでもあります。しかし、結果として、それがさらなる差別を生み出すことになっていることは見てきたとおり。

 この救われない状況を打開するためには、どうすればいいのでしょうか。答えはいったいどこにあるのか。ひとはどうすれば、ほかのひとを恨み、憎み、差別することなく生きていけるのか。