その17

 ところで諸君、きみらが聞きたいと思うにしろ、思わないにしろ、ぼくがいま話したいと思うのは、なぜぼくが虫けらにさえなれなかったか、という点である。まじめな話、ぼくはこれまでに何度虫けらになりたいと思ったかしれない。しかし、ぼくはそれにすら値しない人間だった。誓って言うが、諸君、あまりに意識しすぎるのは、病気である。

 さて、長々とつづけてきたこの「電波男」考も最後の話に入りたいと思います。

 ぼくはこの文章を書きはじめたとき、「本当に本田さんの理論を打ち破るためには、才能にも容姿にも愛情にも金銭にも恵まれなかったものが、いかにして生きていくべきなのかということを提示できなければならないんじゃないか」と書きました。それはむずかしいから「電波男」のことはなかなか書けない、とも。

 しかし、「電波男」を語る以上、やはりその問題を無視するわけにはいきません。ひとはなぜこうも格差をもって生まれるのか、そして敗北者として生まれた(と信じる)ひとはどのようにして生きていけばいいのか。

 「電波男」は、そんなひとはすぐに現実を離れて虚構の楽園に逃げ込め、と薦めています。そこでなら、ひとは平等に人生を楽しめる、この現実世界で幸福を得られなかった者にとって、もはやのこされた居場所はそこしかないのだ、と。

 もちろん、そんなことをしても、現実の諸問題はなにひとつ解決しないでしょう。しかし、その道を選べば、少なくともかりそめのやすらぎを知ることはできる。

 本田さんの主張は、その論旨の混乱ぶりにもかかわらず、奇妙に胸を打つものがあります。それは、かれの論理が偽物であるとしても、かれの思想の根底にある絶望は偽物ではないからです。

 おなじ人間として生まれながら、あるひとはすべてをあたえられ、祝福されて人生を生き、またあるひとはなにひとつあたえられることなく、惨めに、打ちひしがれて生きていかなければならない。それが社会の現実であるように思えます。

 もし生まれるとき、「イケメン」と「キモメン」を選べるものなら、あえて「キモメン」を選ぶひとがいるでしょうか。顔とは、ひとの運命そのものです。ひとは決して自分の顔を選ぶことはできない。それなのに顔はそのひとそのものとして扱われる。

 世界一の有名人でありながら、けっしてありのままの自分に満足することなく、自分自身を切り刻んだマイケル・ジャクソン、かれの孤独を思うとき、顔の問題が人間にとってけっして小さなものではないということがわかります。

 なんの不足もないように見える美女ですら、ちょっと太れば「激太り」とあざけられるこの国にあって、まったく容姿を意識しないで生きていけるひとなど、いったいどれくらいいるものでしょうか。ほとんどいないのではないか、と思わずにはいられません。