その16


 美少女ゲームに嵌まっていた一時期、ぼくは「自分はなぜこんなものに嵌まるのだろう」と始終、考えていました。そしてそのときの思考過程は、本田さんとほぼおなじだったのではないかと思います。この世界に安住できたら最高なのではないか、というのがそのときのぼくの偽らざる心境でした。

 一般にフィクションというものは、読者なり視聴者を深く感動させることもできる反面、その心を傷つける性質ももっています。しかし、美少女ゲームの世界では、たいていそういった「フィクションのダークサイド」が注意深く取り除かされています。

 そこにあるものは、だれに傷つけられることもない、なんともいえずやすらかな世界でした。これこそが自分のもとめていたものなのではないか、そのときは真剣にそう考えたものです。まさに本田さんが主張しているように。

 たったひとつ、本田さんとぼくが違うのは、ぼくがこういった「萌え」ゲームに挫折してしまったということです。簡単にいうなら、ぼくはその楽園に飽きてしまったのです。

 一般に「作品」とは、どんなジャンルであれ、自分とは異なる意識と識見をもつ「他者」が生み出すものです。ぼくたちがある作品に触れるとき感じる感動とは、「他者」と触れ合う感動だといってもいい。

 ですが、「自分」を傷つけることがない「萌えキャラ」でみたされた美少女ゲームの世界は、本当の意味では「他者」を意識させません。

 どこまでもあたたかく、優しく、やわらかく「自分」を受けいれてくれるその世界は、ある意味ではたしかに理想のフィクションといえると思います。しかし、ぼくはついにはそれに飽き足らなくなってしまった。

 ぼくは、たとえ失望することになるとしても、やはり「他者」と触れ合いたかった。「癒し」や「救い」だけでは満たされなかったのです。

 本田さんは「萌え」を「自分で自分を救うという行為」と表現します。ここから本田さんにとっての「萌え」が、自己愛の充足、すなわちナルシシズムそのものだということがわかります。

 ある意味で、かれの理想とする世界は人形を使ったひとりあそびに似ています。そこには厳密な意味での「他者」が存在しない以上、だれにも傷つけられる心配はありません。ただ、そこに充足を見出せるひとばかりではないということはたしかだと思います。

 本田さんが批判する「新世紀エヴァンゲリオン」の終盤で描かれたのは、むきだしになったエゴとエゴの壮絶な闘争でした。そこにあるものは、「癒し」ではなく「現実」に過ぎないという本田さんの指摘は正しいでしょう。

 しかし、そういった「現実」と対峙する視点を失ったフィクションは、やはりなにかを致命的に欠いているのではないかと思います。刺激と癒し――どちらを選ぶのかはそのひと次第です。

 ただ、ときに美少女ゲームですら裏切りが待っている以上、「萌え」が本田さんが主張するほどに孤独な行為だとは思わない。自己愛を充足させることだけが「萌え」だとも考えない。

 ひとりあそびも、ひとりでやっているように見えて、本当はあいてがいるのかもしれません。