その13


 ずいぶん間が空いてしまいました。「いまさら「電波男」について考えてみる」その13です。

 いままでスムースに進んでいたコラムがここに来て停滞してしまったのは、「電波男」について真面目に考えはじめると、際限なく思考の射程が広がっていってしまうことに気付いたからです。ひとつひとつの記述について愚直に検討していくと、いつになっても終わらない。

 たとえば「萌える男」のニーチェにかんする記述はあからさまに胡散臭いのですが、これを正面から論じようと思うと、「ツァラトゥストラ」のひとつも読んでおく必要がある。そういうところがほかにも無数にあって、自分の不勉強を思い知らされるわけです。

 まあ、本を読んでわかることなら読んでもいいんだけれど、資料さがしと更新を並行して行おうと思うと今度はなかなか進まなくなる。

 というわけで、今回は本田さんの発言を網羅的に検討することはあきらめて、大まかな評価のアウトラインを描き出すことに専念することにしたいと思います。

 いずれまたこのコラムを底辺にしてより詳細な文章を書くことがあるかもしれませんが、とりあえずいまは身の程をわきまえて自分に書けることだけを書いていくことにしましょう。そうすれば、たぶん「その20」くらいで書き終わるはずです。

 さて、次のテーマは本田さんにとって「フィクション」というものがどういう意味をもっているかということです。

 いうまでもなく、本田さんは一貫してフィクションの価値を擁護し、肯定する立場に立っています。しかし、その一方で本田さんのフィクションに対する感覚はかなり独特のものがあります。

 本田理論にとってフィクションの存在はどのように位置づけられるものなのか、これから2、3回かけて検討していってみることにしましょう。

 まず、本田さんにとってのフィクションの定義がわかる文章としては、「萌える男」あとがきのこのような記述があります。

 つまり人間は自我を持つ限り、この現実世界に対して常にストレスを感じ、トラウマを抱き、ルサンチマンから自由になることができない。その苦悩から自己を救済するために生み出されたシステムが「フィクション」なのであろう。

 ようするにフィクションとは現実世界でのさまざまな不満を手っ取り早く解消するための装置である、ということでしょう。

 この認識は本田理論の根底にあるもので、「電波男」にしろ「萌える男」にしろ、ひたすらそのようなフィクションによって癒され、救われることは素晴らしいと主張した本といえます。

 本田さんがフィクションと書く場合、このような効能をもった作品のみを指しているといってもかまわないのではないかと思います。

 そしてそういった効能をもたない(と思われる)作品はわりあい否定的に語られます。その代表例が、皆さんご存知の「新世紀エヴァンゲリオン」です。