まだ続いてるんですね


 快調につづいてきた「いまさら「電波男」について考えてみる」だが、「その13」以降がどうにもうまく書けず、いまぼくは苦しんでいる。そこで、現実逃避のためにトラックバックに反応してみようと思う。そう、まだ続いているんですよ。ついでにいうなら、まだまだ続いていく予定なんですよ。

この本、本気ではあったとしても、明らかに勢いで書いていて、論理的に煮詰められている訳ではない。

その論理的な問題を突付いても、結局はネタにマジレスに近い状態になるか、「本田氏はダブスタ」の結論ありきの論理しか導きようがないように思える。

 このことは、ぼくも考えた。「電波男」や「萌える男」の論理的誤謬は、既にあちこちのサイトで指摘されている。あたりまえだ。ふつうのひとがふつうに読めば「なんだかなあ」と思う本なのだ。

 それでもこの本が擁護されるのは、あきらかに「ネタ」として書かれたものだからだ。ここでいう「ネタ」性とは、「恋愛資本主義からの脱却を! 萌えこそ真理だ!」といった表面的なメッセージとともに、「ジョークなんだから、本気で受け取るな」というメタメッセージを発信しているということである。

 このメタメッセージこそが本田透をありとあらゆる批判から守っている。そして迂闊に突っ込みをいれると「空気の読めない奴」としてばかにされるわけだ。しかし、それでもぼくは「ネタにマジレス」しておくべき必要を感じる。

 ひとつには、この本がいたってベタに受け止められている現実があるからである。Amazonの「電波男」レビューからひとつを抜き出してみよう。

私はこの本を思想書として読みました。

いわゆる「オタク研究本」と違って
本田氏は自分の世界を心から信じ
逃げも隠れもせず、それを訴える。

この本によってオタクの世界に
はじめて思想が登場したんだと感じました。
あいまいな内容ですみませんが、
現代を知る意味でも必読。

 思想書ですよ、思想書。とりあえずこういった極端にベタな受け止め方がある以上、本田理論の論理的誤謬をベタに批判しておくことは無意味ではないと思う。

 そしてあえて「ネタにマジレス」するもうひとつの理由は、「本田透はぼくだ」と思うからである。

 本田氏の主張には、その文章には、あきらかに「ネタ」の次元を超えてひとの胸に迫るシリアスなものがある(「電波大戦」あたりになるとそれもだいぶ薄まっているけれど)。

 ぼくはそこに自分自身を見る。自分の「キモメン」に劣等感を抱いているのはぼくだ。癒しと救いを求めてエロゲーに嵌まったのもぼくだ。ぼくには本田氏の言動を他人事として切り捨てることはとてもできない。そうかといってかれの提唱する「ひとりだけの宗教」に入信するつもりもない。

 だから、ぼくは「電波男」について語ろうと思う。自分自身のために、「オタク」として生きてきた自分自身の過去と対話するために。どこまでも、ベタに。