その12


 しかしまあ、すべてがオタクのせいだとばかりはいえないでしょう。差別されたり、見下されたりするなかで培われた屈辱感は、しばしばこころのなかに深く沈殿し、自分では取り去ることもできなくなってしまうものです。

 そういった恨みや憎しみをかかえて生きていくことは苦しい。それでもどうしてもルサンチマンを捨て去ることができない。そういった生き方をしているひとたちは同情にあたいするのではないでしょうか。

 しかし、べつの考え方もあります。そういうひとたちは、みずから好き好んでルサンチマンをかかえこんでいるのだ、という考え方です。ここで、孫引きにはなりますが、竹田青嗣「「自分」を生きるための思想入門」の文章を引用しましょう(引用ばっかりでごめんよ)。

 ルサンチマンとは、「反感」、「恨み」、「嫉妬」ということです。親に「おまえは駄目だ」と怒られたり、先生から「きみはなっちゃいない」とか言われたりしたとき、そこで恨み返すことが「ルサンチマン」です。

 ルサンチマンという言葉は、もともとは感情を反芻すること、辛いことや悲しいことを思い返して、その感情にいつまでもくよくよ、うじうじとこだわることを意味します。

 冷たくした父親、自分を振った女、自分を除け者にした他人や社会をいつまでも恨み続けることもできるし、何か仕返しをしてやろうという気持ちを持つこともできます。肝心なのは、ルサンチマンはある意味では無用の長物のようですが、それ自体が一つのエロスになりうるということです。それ自体が人間にとって一つの存在可能、生きる理由になることがありえるということです。

 ようするにルサンチマンとは苦しいものでもありえるが、同時に気持ちのいいものでありえるということです。いまどきオタクをやっているひとはこの「ルサンチマンのエロス」に多少なりとも心あたりがあるのではないでしょうか。

 ここに反差別運動の本質があります。差別とは、差別者が差別意識を捨て去ればそれで解決するものではないということです。

 本当の意味で差別を解消するためには、被差別者もまた内面化されたコンプレックスとルサンチマンのエロスを乗り越え、被差別意識を捨て去る必要があります。差別者の認識改善と被差別者の意識改革、そのどちらが欠けても、差別問題は解決しないのです。

 差別者の意識を改善するよう社会に訴えかけることは必要でしょう。しかし、それだけでは片手落ちにとどまる。それと同時に、被差別者自身も自分自身の意識を改善できてはじめて、差別はなくなったといえるのです。

 たしかに、おれはキモメンだから差別された、オタクだからばかにされた、あいつらを恨んでやるっ、とルサンチマンに耽っていれば、それによるエロスを味わうことができるでしょう。でも、それだけではいけないと思うからこそ、反差別を訴えるのではないでしょうか。