その8


 「いまさら「電波男」について考えてみる」第8回です。しかしこの連載、いくら書いても終わりませんね。

 早くも「その8」なのですが、まだ半分も到達していないような気がしています。いままでのように途中で投げ出して終わる結果にならないよう祈るのみです(祈るひまがあったら書けよ)。

 いつもの書評記事を期待しているひとは退屈かもしれませんが、いずれ終わるのでそれまで待ってください。本田理論を巡る話はぼくにとって避けては通れないものなのです。

 というのは、本田さんがぼくにとって重要と思われるふたつの課題を扱っているからです。ひとつは「オタク」とはなにかという問題であり、もうひとつは「フィクション」とはなにかという問題です。

 そのどちらでも本田さんの意見はぼくのものとは微妙に違っていて、かれの意見について考えることで自分の思考を深めることができるような気がしています。

 ここから先の内容では、差別とはなんなのか、オタクは本当に差別されているのか、フィクションとはなにか、なぜひとはそれに耽溺するのかといったことに話がシフトしていく――していったらいいなあ、と思っています。ここらへんはずっと考えてきたことなんですけどね。

 というわけで、ひととおり本田理論の批判をしたところで、ここからいよいよ本題に入ろうと思います(細かく見ていけばまだいろいろあるのですが、きりがないのでここで切り上げます)。

 このコラムの目的は本田さんを批判することそのものにあるのではなく、なぜこういう理論が出てくるのか、そこのところを考えてみることにあります。

 ぼくが見た本田透の問題点とは、オタクの権利を主張するあまり、それ以外の人間の権利について鈍感になってしまっていることでした。

 もちろん、ある程度はポーズでしょう。意図的に仮想敵を作ることによって、話を盛り上げようという意図もあったでしょう。「電波男」で生身のセックスを豚のまぐわいにたとえたところとか、たしかに笑えるんですけど。

 でも、この本、けっこうベタに受け止められている側面があって、ただギャグとして看過してしまっていいものでもないと思うんですね。ただ、だからといって細かいミスをあげつらったところでどうしようもない。それならどうすればいいのか。

 ここで一冊の本を取り出してみようと思います。「ちびくろサンボよすこやかによみがえれ」。京都産業大学文化学部教授の灘本昌久氏が、絵本「えびくろサンボ」絶版の経緯について書いた本です。

 黒人差別にかんする問題を取り扱っているため、後半に差別論一般について書かれた個所があります。その個所がぼくとしては非常によく納得がいく。

 あまりにも次元が違う話ではありますが、オタクがなぜああひねくれていなければならないのかということについても、この本を参照するとわかりやすいと思うのです。次回からはこの本の内容を引用しつつ話を進めていきたいと思います。