その5


 このコラムのタイトルは「いまさら「電波男」について考えてみる」なのですが、どうも「電波男」は放り出して「萌える男」について語っているような気がします。

 やっぱり「電波男」はああいう本ですから、ツッコミを入れにくいんですね。どこまでがポーズでどこからが本気なのかよくわからない。萌えない男は鬼畜になるだの萌えない女はオニババになるだのといったことを書いていても、ネタなんだからマジになるなよで済んでしまうところがある。

 だからへたになんだかんだいうと、「ネタにマジレス乙」の世界になりかねない。オタクの文化というものは、どういうわけかそういう内輪的なところがあります。

 というわけで、以後も「萌える男」を中心に話を進めていこうと思っています。スタイルは違えど、話の主張としてはほぼ同じなので、片方だけを取り上げてもほとんど問題はないでしょう。もし問題があると思われたら、コメント欄に書き込んでください。

 まあ、それなら「萌える男」だってネタなんじゃないかという意見もあるでしょうが、なにしろあちらは天下のちくま新書から出た本、ネタでは済まされないと思っています。

 「ネタ」というものはある特定の「空気」を背景にしてはじめて通用するものです。そして「萌える男」はあきらかにその「空気」を知らない層までねらっている本だと思います。

 こういう場合、「ネタだから笑って赦せよ」というのはあまりに不誠実な態度というものでしょう。この点において、ぼくは「本とカロリー」2005年11月12日の記事に賛成します。

私は、あまりに荒唐無稽な内容なので、著者がネタとして書いた可能性も考えた。しかし「パロディではない」という誠実さは、新書において最低限保証されるべきことではないか。かりにネタだとしても、著者は自身を支持するオタクを裏切ることになる。著者は、本書で書いた「エヴァンゲリオンは最後にパロディであるとぶっちゃけてオタクを裏切った」ことと同じことをしていることになるのである。

 たしかに、最後の最後で「じつは嘘でした」「冗談でした」と逃げられる可能性をのこしておいたほうが、著者としては安全です。

 しかし、本田透があえて新書で「萌える男」を書いたということは、そういう逃げの可能性を可能性をみずから捨てたということなのだとぼくは考えています。

 「電波男」の内容を真に受けるのはばかばかしいかもしれませんが、さすがに「萌える男」のような体裁の本ではなにかのパロディでは済まないでしょう。

 その勇気に敬意を表して、ぼくはあくまでベタに「萌える男」を受け止めたうえで評価していこうと思います。もし「萌える男」までネタだというのなら、しょせん本田透はそれだけの書き手だった、としかいいようがありません。しかし、ぼくは、かれは本気だと思っています。