その4


 ぼくが驚くのは、本田さんが、オタクを差別する思想にかんしては非常に敏感なのに、ぎゃくにひとを差別する観点にかんしては案外鈍感であることです。「萌える男」には、三砂ちづる『オニババ化する女たち』を引いて、つぎのように述べている個所があります。

 三砂ちづるの著書『オニババ化する女たち』(光文社新書)は、女性の負け犬化・非婚化に対するひとつのアンチテーゼだ。

 内容は「女性は子供を生んで育てないと、オニババになる」という極端な話だが、萌える男の僕としては、うなずける部分も多々ある。僕は今年で三十六歳だが、思い起こせば、同年代の独身女性と一緒にいて心が癒されたという記憶がまったくない。『喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな!』的な厳しいチェックの視線にさらされ、オタク趣味を咎められ、金を稼げと叱咤され、果ては役にも立たない陳腐な人生訓を長々と説教され……という経験を十数年も積み重ねてくると、「恐ろしい」という感情ばかりが蓄積されていく。しかしながら、結婚して子供を育てている年上の女性には、はるかに寛容な人が大勢いる。これはあくまでも僕の経験上の話だが、恋愛資本主義システムの中で恋愛ゲームや結婚ゲームに勝利することに夢中になっている三十代独身女性は、癒しや萌えとはもっとも縁遠い存在なのかもしれない。

 ぼくは「オニババ化する女たち」を読んでいないので、その内容にかんしてはなにもコメントできません。しかし、本田さんの主張はいくつかの意味でおかしいと思います。

 第一に、自分に優しくしてくれなかったから三十代の独身女性はひどい、というのはあまりにも短絡的な言い草です。

 本田さんは「『喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな!』的な厳しいチェックの視線」を非難しているにもかかわらず、自分はあいてを「この女は自分を癒してくれるか」という観点でチェックしています。

 本田さんは、自分があいての話の退屈さにうんざりしているそのとき、そのあいてがどう思っていたのかということをまったく考慮していないようです。

 あいてに「癒してほしい」と思うなら、自分自身が癒しをあたえる存在になることを考えるべきでしょう。ただ女性に癒されることを求めながら、あいてにはなにもあたえたくないというのなら、それはたんなる甘えというものです。かぎりなく身勝手で男性中心的なわがままに過ぎません。

 それとも、本田さんは「女性は男性に癒しをあたえるべき存在である」という役割分担を固定的に考えているのでしょうか。それでは、「萌える男」は本当は男女平等主義者であるという主張と矛盾します。

 第二に、恋愛資本主義からの脱却を訴えているはずの本で結婚出産を礼賛するのはおかしい。男性が恋愛資本主義という不毛なシステムから解放されるべきなのだとすれば、当然、女性だってそうなるべきでしょう。

 となれば、独身で過ごす男性が非難されるべきではないのと同様、独身で過ごす女性も決して非難されるいわれはないはずです。

 もちろん、ここで非難されているのは、「恋愛資本主義に参加したうえで、結婚という勝利条件を満たしていない女性」なので、「すでに恋愛資本主義から降りた女性はべつだ」ということはいえるでしょう。

 しかし、それならば、「女性もまた恋愛資本主義から降りて独身で過ごすべき」という結論が出るはずです。当然、「女性は結婚ゲームに勝利し、こどもを産むべきである」という主張になど賛成できるはずがありません。結果的に賛成してしまっているのは、やはりどこかで論理が捻じ曲がっているのです。

 だからといって、この点をあげつらって本田透女性差別主義者だ、と非難したいわけではありません。そうではなくて、なぜ平等の理想をかかげるひとが、その実、こうも差別的/自己本位的な主張をしてしまうのかということを問いたいのです。

 平等が大切だといいながら「萌えない男」を見下し、「萌えない女」に文句をいう。この歪みはいったいなんなのでしょう。本田透にかぎらず、「萌え」や「オタク」をめぐる思想には、しばしばこの種の歪みが見え隠れします。

 今後このコラムでは、そもそも差別によって生まれる痛みとはなんなのか、なぜ差別をやめることができないのか、ということを考えていきたいと思います(予定は未定だけれど)。