その3


 さて、いまさらながら「電波男」についてまとめて考えてみようということが、このエントリの趣旨であるわけですが、はたしてどこから話しはじめたものでしょうか。

 書きはじめる前は最初から最後まで構想を練ってきちんと書き終えてから話しはじめようと思っていたんですけれど、なかなかそうもいかないので、先のことは考えず思い立ったところから書きはじめてみようと思います。

 「萌える男」を最初から最後まで読み返してみてあらためて思ったのですが、ぼくが本田さんの思想で納得がいかないのは、究極的にはただ一箇所、その差別性です。

 「萌える男」は一貫して「萌え」のもとにひとは平等であると訴えているのですが、それにもかかわらず、ひどく差別的な内容に思えます。この本のあとがきによると、本田さんの主張はこうです。

 萌えるオタク男たちを嘲笑したり差別している人々もまた、「自分よりも下位に位置する劣等な人間」を作り出すことで、自分自身の苦しみから逃れられると信じている哀れな人々にすぎない。

 対オタクだけの問題ではなく、バブル崩壊後の日本では、恐ろしい勢いであからさまな差別主義者が増えている。相手は誰でもいい、何でもいいのだ。とにかく「自分さえ苦しみから逃れられるなら、誰を傷つけても差別しても構わない」と本気で考えている。そんな切羽詰まった人間が増えているのだ。

 この主張はわからなくもありません。はっきりとそういった差別主義者が増えていると考える根拠はなにもありませんが、しかし、ぼくも皮膚感覚ではそういった過激な差別思想が根付きはじめているのではないかという不安を憶えています。なにかひどくひとの心がとげとげしくなってきているような、そんな気がしてなりません。

 しかし、ちょっと見方を変えてしまえば、これはそのまま本田さんのところに返ってくる理屈ではないでしょうか。かれは「萌える男」の対極に立つ人間像を「萌えない男」と呼びます。

 「極端化した「萌えない男」は、空想する能力に欠けている。」のだそうです。そして、「想像力に欠ける人間、三次元の世界のみに生きている人間のほうがより危険なのだ」と断定します。

 ぼくには、こういった言い草は、本田さんが口をきわめて非難する「フィギュア萌え族」といった「萌える男」批判と内容的に変わるところがないように思えます。

 萌える男は空想ばかりしていから危険なのだという主張が愚かなら、萌えない男は空想する力に欠けているから危険なのだという主張もやはり愚かです。

 そもそも人間を「萌える男」と「萌えない男」などというかたちで分けてかんがえる時点で、短絡的に思えてなりません。世の中には「萌え」以外のフィクションというものもありえるわけで、というかそちらが大半を占めているわけで、それを普通に楽しんでいる「萌えない男」というものもいるでしょう。