その1


 「物語三昧」の本田透「萌える男」にかんする記事を読んでいろいろと考える。

 本田透にかんしてはいつかまとまった量の記事を書こうと思っているんだけれど、こういう理路整然とした記事を読むと、なおさらその必要性を感じます。ぼくは本田さんの論理展開にまったく賛同しないけれども、しかしかれの思想には無視できないものを感じているのです。

 本田さんの論理展開は、はっきりいって、でたらめです。宮沢賢治は「妹萌え」で詩を書いたとか、オタクは恋愛ニートだとか、荒唐無稽としかいいようがない。

 だから、その気になれば、かれの理論の間違いを箇条書きにして何十行もならべたてることもできるでしょう。しかし、いくらそうして 本当の意味で本田透を論破したことにはならないと思うんですね。

 なぜなら、本田さんの思想の本質は、そのような枝葉末葉の部分(というにはあまりにも重要だけれど)にあるのではないから。

 本田さんの思想の根底にあるものは、なぜおなじ人間として生を受けながら、ある者はイケメンに生まれ、またある者はキモメンに生まれるのかという不条理への問いかけだと思う。

 恋愛資本主義がどうのこうの、社会の変遷がどうのこうのといった理屈は、それを理論武装するための道具に過ぎない。

 本田さんの著書を読んだひとのなかにはこう思うひともいるでしょう。そんなにモテたいのならもっと身だしなみをきちんとして、あるいは人格を磨いて、ひとに好かれるだけの人間になればいいじゃないか、と。

 そういったいいぶんはもっともではあるけれども――しかし、もっともであればあるほど、本田さんにはとどかないだろう、という気がする。だって、かれのすべての思想はそういったあたりまえのやりかたに絶望しきったところから生まれているんだから。

 本田さんはいうでしょう。「そんなことをしても無駄だ。だっておれはキモメンだから」と。かれのすべての論理は、この「キモメン」だという事実(かれにいわせれば)に依拠している。

 ようするに、おれがモテないのはおれが悪いんじゃない、神様が悪いんだ、といっているわけです。本田さんにいわせれば、「三次元でのオリは、永遠に敗者。敗北者。トラウマだけの青春。」(「しろはた」より)なのです。

 本当はいまやかれだって売れっ子ライターにして作家なのだから、ひとに羨まれる身分といってもよさそうなものだけれど、かれはそういった属性をかたくなに拒否する。否定する。

 こういう態度をたんなる開き直りと切り捨てることはたやすいでしょう。でも、ぼくはかれがいいたことがわかる気がするんだよね。ぼくだって、なにひとつ取り得があるわけでもない、生きていたって死んでしまったってたいして変わらないような人間だから。自分はなにひとつ手に入れられなかった――という絶望感にはどこか共感するものがあります。

 たぶん、本田さんが本当に訴えたいのは、この社会の、というよりこの世界の不条理さ不平等さそのもので、そのために恋愛というレイヤーを選んだのだと思う。

 なぜなら、恋愛こそは、この世の不条理と不平等を最も端的に表現するものだからです。経済的にだれもが平等な社会というものは、ひょっとしたらありえるかもしれない。しかし、愛されることにおいて平等な社会はけっしてありえない。

 今後、どのような社会が進歩したとしても、ドストエフスキー「白夜」の主人公のような人物はいなくならないだろうし、そのかぎりにおいて、本田さんのめちゃくちゃな主張は一定の説得力をもつでしょう。ひとは、愛において、平等にはなりえないのです。

 だから、本当に本田さんの理論を打ち破るためには、才能にも容姿にも愛情にも金銭にも恵まれなかったものが、いかにして生きていくべきなのかということを提示できなければならないんじゃないかと思う。それはとてもむずかしい。したがって、ぼくはなかなか「電波男」論を書きはじめられません。

 ただ、それでもぼくは本田さんの扇動は最悪だとは思うんだよね。かれの扇動は、ひょっとしたらおなじような苦しみを抱えているかもしれない女性に対する攻撃を孕んでいるからです。これだけはいただけない。

 あるいは本田さんはネタのつもりなのかもしれないけれど、現実にそれはベタに受け入れられて、しゃれにならない女性嫌悪の苗床になっている。だから、いまのところ「電波男」は乗り越えられなければならないと考えています。なかなかむずかしいことだけれども、ね。