「グイン・サーガ」第106巻。

 アストリアス率いる「光の女神騎士団」から逃れつづけるグインは、事態の打開を図るため、単身アストリアスと交渉することを決心するのだが――。

 という展開は放置して、シルヴィアの話のつづきです。さて、そういったシルヴィアの心理は、見方を変えれば、ただのわがままともいえます。

 ケイロニアの皇女として生まれ、ひとなみ以上の生活を享受している以上、ひとなみ以上の責任からものがれることはできない――そういった意見は、まず正論だといえるでしょう。

 じっさい、ケイロニア宮廷の人間はだれもがそう思い、シルヴィアの存在を苦々しく感じているのですが、栗本薫ケイロニア宮廷とシルヴィア、どちらに味方するでもなく、ただ淡々と物語を進めていきます。ここにこの作品の個性があるといえます。

 たとえば小野不由美の「十二国記」あたりと比べてみると、栗本薫のスタンスがわかってくるでしょう。ようするに視点の違いなのです。世界を見るとき、上から見るか、それとも下から見るかということですね。

 「十二国記」という物語は、基本的にきわめて高いところから世界を見ているといえます。「十二国記」は、その世界にわずか十二人しかいない「王」の視点で描かれる物語だからです(ちなみに「ファイブスター物語」ではもっと高い「神」の視点が用いられています)。

 「十二国記」の王たちは、みな、王たる条件を満たせなければ死んでしまうという非常に厳しい状況に置かれています。王たる条件とはなにか。それは国を富ませるということです。

 国を富ませ、正しく管理するためには非情な精神が必要とされます。王を補佐する麒麟たちは、そろって優しい心をもっているため、罪人を赦したり、税を安くしたりするよう諫言しますが、王はそのすべてを聞き入れてはいけません。

 国家を管理するためにはときに犠牲を甘受しなければならないこともある。その決断をためらわない高貴なる非情さこそが王たる者の条件であるという価値観がつらぬかれているのが、「十二国記」という作品です。

 しかし、そのような王たちの偉大な、気高い決断でさえも、じっさいに犠牲にされる者からしてみれば欺瞞にすぎないともいえるのではないでしょうか。

 そのじっさいに犠牲にされる者というのが、「グイン・サーガ」におけるシルヴィアの立ち位置なのです。

 基本的に彼女はごく平凡な、ふつうの少女に過ぎません。そしてたまたまケイロニアの皇女として生まれたばかりに、国家の利益を最優先するシステムに押しつぶされます。

 義務と責任を第一に考える思想からすれば、彼女の思いはたんなるわがままに過ぎないでしょう。しかし、むざんに打ちひしがれたいまのシルヴィアを見ると、ケイロニアという国家に、ひいては主人公グインの生き方そのものに、疑問が湧いてきます。

 本当に正しいことは正しいのか? そういう視点を用意していることが、「グイン・サーガ」という作品のおもしろさでしょう。