その6


 さて、最終回です。いろいろと語ってきましたが、いいたいことはひとつ、「ひとはだれのために作品を批判するのか」ということです。ぼくはやはり、クリエイターのためだとか、以後の作品に役立てるためというのはうそだと思う。

 そういう場合がないとはいわないけれど、現実に消費者の意見がクリエイターにとどく可能性はかぎりなく低い。本気でクリエイターのためと考えているなら、ファンレターでも書くほうがよほど有効でしょう。

 ようするにまず大抵の場合、人間は批判したいから批判するのです。したがって、ネット上に寄せられる批判の数々は、作品に対する的確な提言というより、たんなる自意識の発露になりやすい。

 これは過去の自分の発言をかえりみていうのですが、やはりある作品を評価するということはそれなりにむずかしい行為であって、ただ思ったことをそのまま書き並べればいいというものではない。

 もちろんただ思ったことを書いただけの文章もひとつの「率直な意見」として価値はあるでしょう。ただ、前述したように、クリエイターサイドから見れば、それが本当の「率直な意見」なのか、それともたんなる悪意からの非難なのか判断することはできない。したがって、やっぱり創作の役に立たないだろうと思います。

 だから、クリエイターはネット上の批判をいちいち誠実に受け止めたり、謙虚に検討したりする必要はまったくない、というのがぼくの結論です。

 もちろん消費者の意見を受け止めることがまったく無意味だとは思わない。しかし、それは特定の「顔の見える」あいてに絞るべきでしょう。

 不特定多数の意見をすべて聞き入れるなどということは不可能なことですし、そんなことをする必要もありません。どんなクリエイターも、「万人に愛される作品」など生み出せはしないのですから。

 作家の京極夏彦が、「読者として想定できるのは、十人程度が限界である」ということをいっていました。あの怪物的才能をもってしてそうなのですから、ふつうのクリエイターならなおさら、何万という消費者すべてに気にいられる作品を作ろうなどという無謀なことは考えないほうがいいのではないでしょうか。

 そう、ネット時代のクリエイターには、「他人の意見に素直に耳を傾ける謙虚さ」と供に「他人の意見を平然と無視する図太さ」が必要なのです。

 もちろんいままでもそうだったのでしょうが、ネットの登場によって以前とは比較にならない量の情報がクリエイターにとどくようになったいま、なおさらそうなったといえると思います。

 結局、どんな消費者も、クリエイターの代わりに作品を作ってくれはしません。「作る側」と「受け止める側」のあいだにはやはり壁があるのです。

 批判する側も、される側も、その壁の存在に対して自覚的であるべきだと思います。自分がどちらの立場にいるのか、つねに自覚している必要があるでしょう。おしまい。