「火目の巫女」で赤い彗星のごとく颯爽とデビューした杉井光先生が「ファン」について書かれているので、ぼくも便乗して書いてみよう。

 さて、こと物語メディアにかんしていうなら、ぼくはわりと簡単にファンになるひとです。そして一度ファンになったら飽きるということがありません。

 その作家・作品の作風がどれだけ変わろうと、質が落ちようと、変わらず支持しつづけ、読みつづけます。もちろん質が落ちたら見切る場合もたくさんありますが、そういうもののことはあえてファンとはいわないでしょう。

 最近の例でいうと、ひぐちアサおおきく振りかぶって」のファンになりました。したがって、これからこの作品が完結するまで、ずっと読みつづけることになるはずです。これは断言できます。ぼくは一度好きになったものはなにがあろうと嫌いにはならないひとなのです。

 こう書くと、それはただの「信者」じゃないか、といわれるかもしれません。でも、やっぱりそれは違うと思うんですよ。だって、欠点は把握できるから。

 「おお振り」の場合でいうと、やっぱり絵はへただよな、ということはわかる。わかるんだけれど、気にならない。理性が「へただよ」と告げると、感性が「だから?」と問い返す素敵な脳内回路ができあがっているわけです。

 これは「おお振り」よりさらに熱烈にファンになってしまったシオドア・スタージョンなどの場合でも同様です。五冊読んで★★★★★が三つ、★★★★☆が二つという片寄りまくった評価を見ればわかる通り、ぼくはスタージョンのファンです。

 しかし、同時に、作家としてのスタージョンにはわりとあからさまな欠点がいくつかあることもわかっているつもりです。まあ、SF設定にはかなりひどいものが混じっていますよね。

 「三の法則」の初期設定なんて、陳腐だよね。あの大傑作「海を失った男」にしても、天才的想像力と超絶的文章力で粉飾されてはいるものの、大元はありがちなSFに過ぎません。

 でも、それが気にならないんですね。むしろ、そういった欠点を抱えた、不完全な天才だからこそスタージョンを好きになったのだといえる。

 経験的にいえることですが、どうもぼくは完璧な作家というものに興味が行かないらしい。浅田次郎あたりの小説を読むと、巧いとは思うものの、ファンにはなりません。ダン・シモンズの「ハイペリオン」四部作でいちばん好きなのは最も評価の低い「エンディミオンの覚醒」だったりする。

 ようするにどこか欠けているもの、人気でも、構成でも、文章でも、品格でもいいのですが、なにかが欠損していていびつな形をしているものしか好きにならないらしいんですね。そうでないものは、感心するだけで、通り過ぎてしまう。

 どうしてこんな素直な性格のぼくがそういう変わった趣味をもったのかふしぎですが、とにかくそうなのです。まあ、ファンになるなんて、理屈じゃないですよね。