その2


 前回はエンターテインメントのシナリオには「導線」が大切だ、という話をしました。入口があって、波乱があって、出口がある、ということですね。

 しかし、世の中にはこの導線をまったく無視した作品も存在します。ひたすらキャラクターがいちゃついているだけだったり、セックスしているだけだったり。

 理屈からいえば、こういう作品はエンタメとしては良くないということになりますが、それでも絵がきれいだったりキャラがかわいかったりエロだったりホモだったりすると、商業的に成立します。

 ようするになんらかの快楽要素があればいいわけで、こういう作品はよく「同人誌的」といわれたりします。ここでもその呼称を採用することにしましょう。

 さて、いわゆる葉鍵系の作品はそういった同人誌的な作品とは違う意味で、導線を無視しているところがあります。まあでも、「To Heart」あたりはふつうのエンタメとしての導線があると思うんですよね。

 マルチシナリオあたりを例にとるとわかりやすいけれど、まずマルチと出逢うところから始まって、マルチがいなくなってしまうというサスペンスがあって、その設定のなかで繰り広げられる日常のドラマがあって、哀しい別れがあって、そしてハッピーエンドがある、といたってまっとうなエンタメの構造になっています。

 ところが、これが「ONE −輝く季節へ−」あたりになるとちょっと怪しくなってくる。この作品のユニークさは、「To Heart」的な日常世界に「えいえんのせかい」というアイディアがわりこんでくるところにあります。

 物語がすすむにつれて、主人公は周囲の人々に忘れ去られ、どことも知れぬ遠い異世界に消えてしまうのです。ひとがひとり消えてしまうのだから非常に不思議な展開といえるでしょうが、この物語をふつうのSFとかミステリとかの感覚で読んでいると、面食らうかもしれません。

 なにしろプレイヤーは最後までプレイしてもこの「えいえんのせかい」がなんだったのかわからない。普通のエンタメで要求されるはずの「合理的な結末」というものがないのです。

 これはエンタメとしてはかなり非常識だといえます。基本的にエンタメ作品というものは、作中でなぞが出てきても最後にはそれは解かれるという「お約束」の上に成り立っているからです。

 現実には不可解ななぞが不可解なまま終わってしまうことも少なくないわけですが、フィクションではそれはご法度であるわけです。

 たとえばミステリで密室殺人が起こったとして、最後までどうやったかわからなかったら顰蹙ものでしょう。それをあえてやってしまった作品は、しばしば「アンチミステリ」とか「メタミステリ」などと呼ばれますが、それは「お約束」があることを踏まえた上での例外的な作品といっていいと思います。

 エンタメ作品でこういう「お約束」を破ってしまったらどうなるか。恰好の例があります。「新世紀エヴァンゲリオン」です。