バッテリー (2) (角川文庫)

バッテリー (2) (角川文庫)

 戦う者なら、まずは「俺こそが一番だ」という巨大なエゴありきだ  敗北や挫折や様々な経験で、いずれそれは削られて形を整えていくだろう それが成熟ということ 逆はない 成熟してからエゴは身につかない

――井上雄彦「リアル」

 ああ、おもしろかった。本を読み終えて、こんなここちよい満足感とともにページをとじることができるのは、ひさしぶりだ。「バッテリー」第二巻。この巻も、第一巻に劣らず、いや、それ以上におもしろい。

 どこまでもじぶんを信じ、じぶんを貫こうとする巧。その巧と運命的な出逢いを遂げたことから、才能をのばしはじめる豪。

 この巻では「社会」という現実が新米バッテリーに襲いかかってくる。じぶんを枠に嵌め管理しようとする理不尽な制度に巧は苛立ち、激しく反発することになる。

 それにしても、この少年を主役に据えた作者の度胸はたいしたものだ、とあらためて思う。

 児童文学の範疇にありながら、この小説の内容はお世辞にも教育的ではない。それというのも、この巧という少年の存在が教育的でないからだ。

 かれの存在のすべてはありきたりの教訓話を拒絶したところに立っている。努力すれば報われる、仲間と仲よくするのは大切、そういった生ぬるい道徳をふりきって、少年はひとり孤高をつらぬく。したがって、作品そのものも教育的になりようがないのである。

 この巻で印象的だったのは、ほとんど出番がない巧の母親だった。彼女はたぶん巧が思う以上に、息子を愛している。だからこそかれの傲慢を気遣う。曲がることをしないかれの生きかたを懸念する。

 しかし、その愛は巧までとどかない。かれはまとわりつくものすべてを拒絶して、孤高のままマウンドに立つ。そのとき、かれの目に映るのは、豪がかまえたキャッチャーミットだけ。

 母の愛も、仲間との友情も、教師の思惑も、世界のすべては無価値と断じられ、切り捨てられ、背景と化して消えていく。なんて傲慢な、なんて冷酷な生きかたなのか。しかし、それこそが原田巧なのだ。

 かれは他者の理不尽と妥協し、周囲とのあいだに軋轢を生まないように生きていくことが大人になることだという常識を否定する。どこまでも潔癖に、どこまでも純粋に、じぶんの信じる生きざまを貫く。

 巧の生きかたは正しいのか? そう問うことは無意味だろう。正しいか、正しくないか、かれにとってそれは重要ではない。たしかにいえるのは、巧にとってそれが必然だということだ。

 かれはほかの色とまじわってにごっていくことをみとめない。世界とぶつかって折れることをよしとしない。天才とは、そういうものなのかもしれない。

 否――おそらくは才能の問題ではない。それはこの少年の天性なのだ。かれはどこまでも折れず曲がらずまっすぐにすすむことしかできない。かれが投げる球のように。

 その生きかたがどこまで通じるのか、通じないのか、いずれにせよ次巻がたのしみである。認めよう。たしかにこれは傑作だ。