なぜなら、すべてのキャラクターを人間的にしてしまうことは、ある意味でキャラクターを卑小化してしまうことにほかならないからだ。つまり「人間以上」として設定されていたものを、たんなる「人間」に格下げすることになりかねない。

 「魔界水滸伝」あたりを読めばよくわかるが、栗本薫というひとは徹底的に人間しか描けない。彼女の世界では地球在住の妖怪たちはもちろん、クトゥルーの邪神たちですら立派に言葉を喋って対話する。

 はじめは圧倒的な超越的存在にみえた邪神たちだが、さいごのほうではかれらにもそれなりの事情(!)があったことがわかってくるありさま。

 クトゥルー神話クトゥルーやらアザトースやらナイアルラトホテップやらが神秘的な存在でありえるのは、かれらが決して喋らないからだ。ひとたび話し出してしまったら、魔法は解け、たんなる悪役に転がり落ちる。

 栗本がそれをわかっていなかったわけではないだろう。しかし、それでも彼女は邪神たちの内面を描写してしまう。

 「グイン・サーガ」の魔王ヤンダル・ゾッグや魔王子アモンにもおなじことがいえる。名前が出てきたときこそいかにも怪物に見えたかれらは、その事情がわかってくるにつれて、いたって人間的ないじましさを抱えていることがわかってくる。

 そのよしあしはともかく、そういう書き方をする作家なのだ。その意味で一点の染みもない徹底した悪を描ききった「女郎蜘蛛」は、彼女にとって新境地といえると思うが、それはまたべつの話。