さて、SFの世界ではエイリアンは人間とは異質でなければならないとされている(このあいだの山本弘さんの本にもそう書いてありました)。

 はるかな星の彼方で全く異なる進化を遂げた生物の行動が、人間そっくりじゃ興醒めだ、というわけ。

 しかし、内面を意識した描写をしてしまえば、どんなに奇妙な設定を付与しても、そのキャラクターは人間的に見えてきてしまうものだ。

 たとえばラリイ・ニーヴンの「ノウン・スペース」シリーズに、パペッティア人という異星人が出てくる。

 極端な怖がりの種族で、何万年後だかの銀河の核の爆発にそなえていまからマゼラン星雲へ逃げだしてしまうというけったいな連中なんだけれど、ぼくにはこの設定も人間の個性の一部を取り出して誇張したものにしか思えなかった。ただの人間にだっていくらでも奇人変人はいるからね。

 従って、本当に異質なものを描きたかったら、人間に理解できるようなかたちでの内面を設定しないこと、そして決してしゃべらせないことが重要になってくる。

 人間のことばを話すことは人間的な内面をもっていることの証明だからだ。かんたんにコミュニケーションをとれるようなら、それはやはりちょっと変わった人間に過ぎないといいきっていいだろう。

 しかし、これを望まない作家もいる。能力の問題ではない。個性の問題である。たとえば、手塚治虫がそうだった。