この件についてもう少し考えてみよう。

 話の前提になるのは、「リンクフリーは正しい」ということだ。合理的に考えれば、あるサイトにリンクを貼ることを止める権利はだれにもない。インターネットはひとつだからだ。そのことを認識した上で、「正しさのその先」について語ってみたい。

 たとえば、あなたが大手サイトの管理人だったとしよう。そして、少々差別的な内容のエントリをみつけとしよう。あきらかにその内容には問題があり、指摘すれば話題になることは間違いなしだ。多くの非難がリンク先に集まることだろう。

 そしてあなたはそこにリンクを貼る。そのリンクに問題があるといえるだろうか? 原則的には、問題なしだろう。あなたは正当な権利を行使したに過ぎない。悪いのは問題エントリをアップしてしまった当人であり、すべての責任はその人物にある。

 しかし、ここにはたしかに思いやりが欠けている。リンクすればリンク先が荒れることはわかりきっているのに、じぶんの権利を行使したのだから。

 優しさとか思いやりといったものは、正義ではない。だから、だれもそれをほかのだれかに強制したりはできない。それは「正しさの外にあるもの」なのである。しかし、それなしでは人間社会はいかにも窮屈な場所になってしまう。

 迂闊な内容の書き込みをしてサイトを「炎上」させてしまうようなひとは、たしかに愚かだろう。自己責任という観点からみれば、弁護しようもない。だが、愚か者に対しても優しさをもって接することは不可能なことだろうか。

 人間が最も残酷になるのは、あいてが悪いことを確信したときである。悪に対して、愚かさに対して、人間は無制限に非情になれる。論理だけで考えるなら、そのことにはなんの問題もない。愚かしいのは、間違えているのは、あくまであいてなのだから。

 しかし、そのことをわかった上で、それでも寛容を期待することはできないだろうか。あきらかに愚かで間違えているあいてを傷つけないために、正当な権利を放棄してほしいと望むことは無理だろうか。

 おそらく無理だろう。大多数の人間は、じぶんが嫌いなあいての心理など考えもしないものだ。しかし、もし多くのひとがこんなふうに考えることができたら、ネットでの揉め事ははるかに減るはずだ。ネットで恥をかき、傷つくひともきっと減る。

 ああ、こういうことは他人に要求するまえにじぶんで実行しなければ意味がないな。ぼく自身、いまではそれなりに影響力をもつサイト管理人である。このことについては、さらに深く考えてみる必要があるだろう。考えるだけの価値があることだと思う。

 余談。いま話題の「国家の品格」という本には、やはり論理を越えることが肝要だ、という意味のことが書いてあるそうですが、ぼくはこの本を読んでいません。今度、ひまがあったら読んでみようかな。薄いし、読みやすそうな本だし。