天才のつくりかた


 基本的には「作者の能力以上の天才は書けない」という意見にぼくも賛成します。

 たとえば「容疑者Xの献身」の石神は天才数学者という設定ですが、その天才性を表現するため作中に石神が書いた論文を載せるということはできない。作者にそれを書く能力がないからです。

 そういう意味では、天才数学者を描くことができるのは本物の天才数学者だけ、ということになります。作家にできることは、「石神は論文を書いた」と書くことだけです。つまり、じっさいには内容の存在しない論文をあるように書くトリックを用いるわけです。

 さて、ここで取り上げられているのは頭脳派の天才ですが、ほかにもスポーツの天才とか、料理の天才とか、いろいろと考えられますよね。その場合も、往々にして同様のトリックが用いられることになります。

 たとえば音楽の天才を漫画で描くとする。厳密にいえば漫画で音楽を表現することはできないから、大抵、天才がみごとに演奏する場面を描き、拍手喝采の場面をつづけるという手が使われます。ここでは架空の音楽を捏造するというトリックが使われているわけですね。最近の作品だと、「のだめカンタービレ」あたりはこのパターンでしょう。

 「ピアノの森」では、主人公の天才少年がピアノを弾くと、そのまわりが森と化していく(ようなイメージが広がる)という場面がありました。原理的に音楽を表現できないメディアでみごとに天才性を表現した名シーンといえると思います。

 ほかにおもしろいものとしては、皇なつきさんの漫画で、ある天才詩人の詩行を表現するために、実在の天才詩人たちの詩を引用しているところがありました。もちろんこれはそう書き記したうえでやっているわけで、そうでなければたんなる剽窃ですね。

 まあ、苦肉の策という印象もありますが、なかなか巧い手なのではないでしょうか。なにより作者が博識でなければできないことです。

 さて、小説ならこういったトリックであらゆる天才を描ききることができそうなものですが、漫画や映画の場合、こういう手は使えないことがあります。

 上記の音楽にしても、これが映像作品だったら、じっさいに音楽を流さないわけにはいかないでしょう。

 むかし、ある天才アーティストの生きかたを綴った「TO-Y」という漫画がアニメ化されたことがあるのですが、やはり違和感がありました。

 そういう意味では、劇場版「NANA」は、作中の一流アーティストを実在の一流アーティストが演じたというじつに稀有な例といえそうです。超人気作品ならではの快挙です。

 まあ、映像作品にはこういう究極の奥の手があるわけですが、漫画の場合、トリックが通じにくいビジュアル的分野の天才を描くことは困難を極めます。いくら作中の観衆が「なんて美しい!」と叫んでも、読者が「どこが?」と思ってしまっては失敗でしょう。

 この分野でひとつの偉大な達成を見ているのが、「ガラスの仮面」です。作者の美内すずえはお世辞にも絵がうまいとはいえないタイプですが、それにもかかわらずその作中劇は読者を惹き込みます。

 「天才の観衆を惹きつける演技」を、じっさいに読者を惹きつける作中劇を描ききってしまうことによって描写しているわけで、これは作者が天才ストーリーテラーだからこそできる技という気がします。

 「美」という意味では、山岸涼子アラベスク」あたりに金メダルをあげたいと思います。終盤で、主人公のバレリーナが「ラ・シルフィード」を踊る場面の凄絶なまでの美しさは、まさに天才を感じさせました。これも作者自身が天才だからこそ描けた作品といえるでしょう。

 そしてまた、べつの意味ですごいのが囲碁漫画「入神」です。

 おなじジャンルの「ヒカルの碁」ではやはりトリックを使って「囲碁の天才」を表現しているわけですが、この漫画ではなんとじっさいに勝負の棋譜を読者に見せてしまいます。作者は何百時間もかけてこれを考えたそうです。

 ストーリーテリングとか絵の巧さでは「ヒカルの碁」とは比較にならない作品ですが、天才描写という意味では「ヒカルの碁」を凌駕しているかもしれません。天才好きはぜひさがし出して読んでほしいと思います。

 ぼくら凡人が天才に憧れを抱きつづけるかぎり、天才を描いた作品は消えないでしょう。不可能にいどみつづける作家たちに幸あれ。