ひとは「自分」に囚われて生きている。

 日頃、人間は自分のことばかりを考えて生きている。自分に才能があるか、ないか、容姿は美しいか、醜いか、金はあるか、仕事はたのしいか、趣味はどうだ、ああだ、こうだ。そのたびに自画自賛したり、自己嫌悪したりする。

 小説を書くという行為もやはり似たような一面をもっている。一行書くごとに、「けっこう書けるじゃん」と満足したり、「全然だめだ」と落ち込んだり、いずれにしろ自意識の檻からはなかなかぬけだせない。

 公開して、評価を受けるときも、おなじような問題がつきまとう。思ったほど好評でなくて落ち込むこともあるだろうし、あるいは期待以上の評価に調子に乗ることもあるだろう。小説を書こうなんて人間は大概、肥大した自意識の塊である。

 ぼくには小説家をめざしている知りあいもじっさいに小説家になってしまった知りあいもいるが、かれらをみていて思うのは、やはり「自分」から抜け出すのはむずかしいということだ。近代社会で生きているかぎり、そんなことは無理なのかもしれない。

 ぼくが小説を書けないというのもようするにそういうことなんだよね。膨大な他人の作品を読むことによって肥大した自意識が一方にあって、それが「書く自分」を監視している。他人をたのしませるためのものを書いているはずなのに、自分のことばかり考えている。これじゃだめだよな。

 「ガラスの仮面」で、北島マヤがオーディションに挑むとき、ほかの役者がどう巧く演技するのか考えているときに、マヤだけは「審査員という観客」をたのしませることだけを考えていた、というエピソードがあったっけ。本物のクリエイターとは、そういうものなのだろう。

 「自分」にばかり囚われていないで、「他者」に目を開きたいなあ、と思うのである。自分は文章力はあるか、構成力はあるか、センスはどうだ、そんなことばかり考えていないで、少数であれたしかにいるはずの読んでくれるひとのことを考えてみよう。

 と、思いました。