その4

ドラゴンボール』が天下一武闘会をはじめたあたりで、世間の人気とは裏腹に、私は作品に対する興味を失っていった。こういう試合試合で引っ張っていく作劇は、遠くは『アストロ球団』に始まり『リングにかけろ!』で完成したジャンプ・スタイルである。『アストロ』は今でも好きな作品だし、『リンかけ』まではまだシャレとして楽しめたのだが、アンケート主義とあいまって、あらゆる連載が毎回試合を行うことで「強いやつのインフレ現象」を示すに及んで、私ははっきりついて行けないものを感じた。それはもはや、少なくとも私の考えるストーリーとは呼べないからである。

物語を終わらせるためには、散らかした伏線その他もろもろの筋を拾い集める必要がありますが、これはもちろん散らかし具合に比例して難儀になる。けれどこれをこなさない限り、その作品に含まれる各エピソード、あるいは各シーンは、それぞれ散らかったままで、それらがいかに個別に素敵な物だったとしても、やはり物語として一つの世界を構成しない。

 繰り返すが、物語には計算された構成が必要である。ある場面を活かすためにある場面を書く。なにげない描写が伏線となってべつの描写を光らせる。それが構成だ。

 そしてこの計算が破綻するとき、物語は崩壊する。それでは、竹熊が語るように、「リングにかけろ」や「ドラゴンボール」では物語が崩壊していたといえるだろうか。

 案外、これはむずかしいところだと思う。たしかに「ドラゴンボール」の、特に後半では、物語は崩れていたようにも思える。ひたすら続くバトル、つぎつぎとあらわれる強敵、山も谷もあったものではないという気もする。

 その一方で、「ドラゴンボール」の展開に起伏があることもたしかだ。孫悟空はたびたびピンチに陥り、気力と知力をふりしぼってそこから脱出する。その意味では、「ドラゴンボール」といえども、物語的であるといえる。

 結論からいえば、「ドラゴンボール」は物語を成立させる最低条件はみたしていたといえるだろう。それでいて、あの作品を「ストーリーとは呼べない」と見る見方も妥当だと思う。

 「ドラゴンボール」には起伏がある――しかしそれはきわめて限定的なものだった。バトルに勝つか負けるか、「ドラゴンボール」の物語性はそこだけに焦点があたっていたのだ。つまり「ドラゴンボール」はきわめて限定的な意味でのみ物語だった。

 そしてバトルのインフレーションがついに星をも砕くまでになったとき、「ドラゴンボール」は力尽きたように完結した。そのあとしばらくして、「週刊少年ジャンプ」のセールスは急な下降線をえがくことになる。それはひとつの時代の終焉であったかもしれない。(つづくだろうな)