その2


 物語が好きだ。

 ほかのなによりも、物語が好きだ。

 この「Something Orange」は書評ウェブログである。メインコンテンツは小説や漫画を取り上げて、評価をくだした記事だ。

 しかし、ぼくは本当は小説そのもの、漫画そのものが好きなわけではない、と思っている。小説を通して、漫画を通じてかたられる物語が好きなのだ。

 実はある程度マニアックな小説読み、漫画読みのなかでは、物語に拘る人間は少数派なのではないかと思う。

 先述したように物語の構造はパターン的なので、読みなれてくると飽きてしまうものなのかもしれない。それでは物語に飽きたあと、なにに拘るかといえば、文章だったり、紙面構成だったり、アイディアだったり、イマジネーションだったりする。

 きのう書いたように、物語というものはある意味で形式的なものだから、年に何百冊と読むようなマニアはどこかでさきが読めるようになってしまうのだろう。

 以前、大森望さんが「本の雑誌」かどこかで、「もう波乱万丈の物語にはほとんど興味がない」という意味のことを書いていた。大森望ほどの読書家ともなれば、むしろ当然のことかもしれない。

 しかし、それでも物語が好きだ。波乱万丈、意外な展開の連続が三度のめしより好きなのである。そして世の中にはぼくとおなじように物語の魔力に囚われたひとたちがたくさんいる。

 ふしぎなものだ、なぜこれほどまでに物語はひとを惹きつけるのだろう。それが生まれてから何千年も経つのに、なぜ人びとは飽きもせずあたらしい物語を語るのだろう。

 物語とは形式である。序破急、起承転結、なんでもいいが、ようするに一定の形式にのっとったもので、そういう意味では、まるで退屈な代物といえなくもない。想像もつかないような斬新な構成、などというものは、いまとなってはほとんど考えられない。

 それなのに、あいかわらず物語はおもしろい。なぜか。ひとつには、物語が実にさまざまな応用を赦すからである。

 物語とは、危機と克服の過程だと書いた。しかし、どんな危機が襲うのか、そしていかにしてそれを克服するのか、あるいは克服できないのか、そこには無数の展開が考えられる。

 悪にいどむヒーロー、完全犯罪に挑戦する若者、恋に悩む少女、ままははに虐げられるこども、あるいは不可解ななぞを解く名探偵――物語の形式を使えば、人間の想像できるかぎりのありとあらゆるものを描ける。

 基本はシンプルだが、バリエーションは無限なのだ。

 しかし、あくまでも読者の心をかき乱すことを目的にして書かれるものには違いないから、そこには「計算」がある。いいかたを変えれば、「人為」がかかわっている。

 それを「わざとらしい」と感じるひともいるだろう。したがって、当然、「できるだけ物語を排した世界を作ろう」という意図で生み出される作品もないことはない。

 たとえばあずまきよひこの「よつばと!」がそうだ。(つづくかな)