いちせさんのところでみかけた、イーガン作品の読みやすさを巡る話。まあぼくもごく常識的に「イーガンを読むなら短編から」と思います。
ところで、SFにも読みやすいものとそうでないものがあることはよく知られていると思います。後者の作品が増えたことが「SF冬の時代」の呼び水になった、という見方もあるでしょう。
それでは、読みやすい作品とそうでない作品は具体的にどこがどう違うのでしょうか。いくつかの作品を挙げ、その最初のページだけを取り出して比べてみたいと思います(文章が途中で切れる場合はその前の段落でカットしています)。
まずは常識的に考えてあらゆるSFのなかでもいちばん読みやすくなくてはいけないはずのライトノベルSFから行きましょう。その物語は、このようにして始まります。
船尾の不吉な物音を聞くと、マージ・ニコルズは反射的に『隔壁閉鎖』のスイッチを押した。計器に目を走らせながら、右肘で傍らの男を小突く。
「起きてください。社長!」
社長――ロイド・ミリガンは緩衝席を目一杯リクライニングさせて眠っていた。床に雑誌が落ちると、無節操に開ききった大口が現れる。その口からは、安物のウイスキーの匂いがぷんぷん匂っていた。
銀髪に口髭、宇宙焼けの中年男は、目をしょぼつかながらうめいた。
「んー……着いたか?」
「異常事態です。宇宙服を着てください。『車検』をごまかしたツケがまわったようです」
ロイドは目をしょぼつかせながら、計器パネルを見た。――野尻抱助「ヴェイスの盲点」
うん、まあ、わかりやすい書き出しですね。
ここまで読めば場所が宇宙船のなかだとわかりますし、ふたりの登場人物もさりげなく紹介されています。
計器を確認して真面目に仕事にいそしんでいる様子のマージ。ウイスキーを喰らって大口あけて寝ているロイド。
これだけの描写でもかれらの性格は窺えるし、どうやらかれらの宇宙船がピンチだということもわかる。なかなか緊迫感にみちたオープニングといって良いでしょう。
次は、日本語で書かれてはいるものの、ライトノベルではないふつうのSF。
むかし、ぼくはフルフトバールという星に住んでいた。ぼくはその星で生まれ、その星で思春期をむかえた。
フルフトバールは農園惑星だった。金持ちどもが食べる野菜をつくることで、生計をたてていた。
ぼくの村では、おもに四寸ニンジンを栽培していた。畑は春先になると、見わたすかぎり、ひろがった緑の葉っぱを季節風になびかせていた。人工物はこの谷にたったひとつ――父とぼくが住んでいた見すぼらしい小屋だけ――それさえも、ともすると、畝とみどりのえがくしま模様のなかに見うしなってしまうのだ。
傾斜のきつい丘と白っぽい道、透明な空はまるで額縁のない一枚の絵のようだった。
ぼくの母は、ぼくが四つになった年に死んだ。その年は色の黒いホッパーが大流行したそうだ。――大原まり子「銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ」
これもわかりやすい。ひょっとしたら「ヴェイスの盲点」以上にわかりやすいかもしれません。
1行目でこの小説が宇宙時代を舞台にしていることがわかる上に、見たこともないような造語や概念は登場しません。スタイル的にも仮名が多くて読みやすい文体です。
唯一目新しいのは「四寸ニンジン」ですが、これもようするにニンジンの仲間なんだろうということはすぐにわかります。
むしろこのことばのおかげで、現代とそう大きく変わっていない社会の話であることが感じ取れる。SFとはいっても、最先端というイメージにはほど遠い牧歌的な冒頭です。
さて、お次は海外SFに移るとしますか。
旱魃はもう一千万年も続き、恐竜の治世はとうに終っていた。ここ、赤道地帯、いつの日かアフリカと呼ばれるようになる大陸では、生存の戦いは熾烈なクライマックスを迎えていたが、勝者はまだ現れてはいなかった。この乾燥した不毛の大地では、小さなもの、すばしこいもの、どう猛なもののみ栄えることができ、また生存の望みをつなぐことができるのである。
草原のヒトザルはそのどれでもなかったから、栄えてはいなかった。じっさい、種族的絶滅への道をすでにはるかにやってきたところにいた。およそ五十ぴきの群れが、乾いた小さな谷を見おろすいくつかのほら穴に棲んでおり、その谷の中央をのろのろと流れる小川は、二百マイル北の山脈に降った雪を、水源としていた。気候が悪いと、流れは完全に消えてしまう。だから群れは、いつも渇きの危険にさらされながら暮していた。――アーサー・C・クラーク「2001年宇宙の旅」
いままでの2作と比べると、かなり摩擦係数が高くなっている気がします。
しかし1行目から「一千万年」という大きな数字を示して意表をつくクラーク節はさすがで、読者をひきずりこむ力がありますね。
「恐竜の治世」などという擬人化もいかにもクラークらしい。
物語の舞台が人類誕生はるか以前のヒトザル時代であることを把握するまで多少手間取るかもしれませんが、いったんそれを認識できたらそれほど読むのに困るところはないと思います。
まあ、前二作と違って感情移入できる人間が出てこないので、そのぶん読みづらさが増しているかもしれません。
しかし、全体的にみれば、まあ、平均的な翻訳小説のリーダビリティとそれほど大きく変わらないでしょう。ちょっと根性を出せば読めそうな感じです。
さて、次はサイバーパンクに行ってみましょう。
暑い晩だった。クロームをカモったあの晩は……。ショッピング・センターでは、おおぜいの蛾がネオンに体をぶつけて自殺をはかっていたが、ボビイのロフトの明かりは、モニター・スクリーンから出るそれと、マトリックス・シミュレーターの赤と緑の発光ダイオード(LED)だけだった。ボビイのシミュレーターの内部なら、素子(チップ)のひとつひとつまで頭にたたきこんである。ちょっと見には、そこらの会社にあるオノ=センダイ・サイバースペース7(セブン)と変わりはないが、中身は改造につぐ改造。あれだけぎゅう詰めのシリコンのなかに、メーカーお仕着せの回路は一平方ミリもあるかなしだ。
ボビイとおれはシミュレーター操作卓(コンソール)の前に仲よく並んですわり、画面左下隅の時間表示を見つめて待機していた。
「いまだ」――ウィリアム・ギブスン「クローム襲撃」
さてさて、かなり難しくなってきました。
一文が長いうえに倒置を使うので、ただでさえわかりづらい文体なのですが、それに拍車をかけるのは造語です。
「マトリックス・シミュレーター」、「オノ=センダイ・サイバースペース7」、「シミュレーター操作卓」といったギブスン語が説明もなく飛び出し、瞬時の理解を迫ります。これぞサイバーパンク。これぞウィリアム・ギブスン。
これは腕のいいハッカーがハッキングを仕掛けようとしているまさにその瞬間だ、くらいのことを把握するにも、ずいぶん労力がかかりそうです。
ただこれはいまが2005年だからこそある程度理解できますが、この作品の発表が82年であることを考えると、当時の読者にはとってはもっと難解な小説だったと考えるべきかもしれません。
もちろん、その斬新さも比べようがないほどだったでしょうが。
さて、最後は個人的にずいぶんつまずきながら読んだ記憶のある難物を。
思い出す――
聞こえるか、おれの赤、かわいい赤? 抱きとめておくれ、優しく。寒さが大きくなる。
思い出すのは、
――おれはとてつもなく黒く、希望に満ちている。新しい温みのなか、おれは六本の肢で山々を跳ねる!……変える力をうたえ、ふしぎな力をうたえ! 変ワリは永遠に変わっていくものだろうか?……おれの唸りはいまではみんなコトバだ。これもまた、変ワリ!
おれは陽に向かってしゃにむに弾み、空(くう)にまじる小さなときめきを追う。森や林がまた縮かんでしまっている。そこで気がつく。おれなんだ! 自分・おれ、モッガディート――冬ざむのあいだに、こっちがもっとでかくなったのだ! 自分がおれに驚いてしまう、ちび助モッガディート!――ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「愛はさだめ、さだめは死」
――――――はっ。あまりのわけわからなさに一瞬意識を失っていたようです。
なんなんでしょう、この冒頭は。読者にわかりやすく説明しようなどという気遣いはこれっぽっちも感じられません。
まず語り掛けるような回想するような独自の文体にはそうとうの癖があります。しかも一人称なのに自分がわかっていることを読者に説明してくれません。
SFを読みなれた読者にとっても、かなりの難物だといえるでしょう。
しかも作者は随所でさりげなくこの語り手が人間ではないことを暗示しています。このさきの物語は、そのことがあたまに入っていないとまったく理解できません。
まあ、もっとわかりづらい作品ももちろん多々あるでしょうが、個人的にはてこずりながら読んだ印象が強くのこっています。
さて、ことほどさように、ひと口にSFといってもいろいろあるわけです。
読みやすいものから、読みづらいもの、だらだらと読んでいけばわかるようになっているものから、読者に思考を強制するものまで、さまざまです。
ただ、たぶん大多数の読者にとって、あとにあげた作品のほうが把握しづらく感じられたと思います。しかし、SFを読みなれていると、そういう作品でもすぐにある程度の目星をたてることができるようになるのは事実です。
「あ、この主人公は人間じゃないか。ということは、異星での出来事かな」などと推理できるわけです。
いきなりティプトリーから入ってすらすら読めるひとももちろんたくさんいるでしょうが、多くのSFファンが「入門編」として比較的易しい作品を薦めることも理由のないことではないのです。
やっぱりはじめは易しいものから入るのが普通でしょうね。
それでは、肝心のイーガンの長編はどうなのか。
おれが睡眠中に受信する通話は、かなり偏執的な依頼人からのものばかりだ。
もちろんだれだって、この種の微妙な要件の通話は秘密にしたいだろうから、頭の中で受信した信号を、電子機器で解読(デコード)されて、部屋の映話機の画面に映しだされたくはあるまい。たとえ映話機のある部屋が盗聴されていなくとも、デコードされた信号は無線周波数帯で漏洩し、一ブロック離れた先でもひろわれるのだから。けれど、たいていの依頼人は、通常レベルの解決策で満足する――脳神経を用途別再結線(モディフィケーション)して脳自体にデコード機能をもたせ、デコードした信号を直に視覚・聴覚中枢へ送るのだ。さらに、おれが使っているデコード用再結線(モッド)の暗号書記(ニューロコム社製、五九九九ドル)は仮想声帯オプションつきなので、おれは通話中に声を出す必要がなく、これで送受信ともに秘密保護が保障されている。
だが、これでもまだ完璧ではない。脳自体も、微弱な電場や磁場を漏洩しているからだ。フケほどの大きさの超伝導電波探知機を頭皮に埋めこむだけで、仮想知覚を構成する神経データ流を盗聴できるし、瞬時に相応の画像や音声に変換もできる。――グレッグ・イーガン「宇宙消失」
あうあう。やっぱり短編から入ったほうがいいかも。
と、おちもついたところで失礼いたします。ああ、ひさしぶりにこんな長文書いたなあ。本当にだれか読んでくれるひといるのだろうか。ちょっと心配。