容疑者Xの献身

容疑者Xの献身

 以下は東野圭吾「容疑者Xの献身」にかんする「真相」ならぬ「妄想」である。

 ひどい長文(活字で読むならそれほど長くないんだけど)でもかまわない、むしろそのほうが嬉しい、という方にのみお勧めします。

 また、重度のネタバレをふくむため(というか、お話の根幹をほとんどばらしてしまっているため)、既に「容疑者Xの献身」を読まれている方、または未読でも「まあいいか」と思われる方以外は読まないでください。



 さて、それでは二階堂説はどの程度正しいといえるのだろうか。念のため書いておくと、二階堂説とは「石神が愛していたのは靖子ではなく、娘の美里」という仮説のことだ。

 結論からいうと、二階堂さんの挙げた「真相」にはやはり少なからずむりがあるといわざるをえない。石神が靖子に近づく男性に嫉妬を感じるという描写に説明がつかないし、石神が弁当屋に通っていた理由も説明がつかない。

 なにより、二階堂さんは「この小説結末を示す伏線がない」として「本格ではない」としている。それでは、なぜかれは「本当の真相」を提示することができるのだろうか。

 本文中に結末を指し示す伏線がないなら、それが唯一の「真相」であるとは断定できないはずだ。逆に本文中に伏線があるのだとすれば、「容疑者Xの献身」は、二階堂定義においても「本格」といってよいことになる。いずれにしても矛盾が出てくるのではないか。

 しかし、まあ、たぶん二階堂さん自身も、それほど本気でこれが「隠された真相」だと信じているわけではないだろう。ただ、この作品における「真相」がべつの視点から見れば覆せるものだと示したかっただけなのではないかと思う。

 また、たしかにそのように考えたくなる「誘惑」はあるのだ。この小説では、メインヒロインの靖子の娘である美里の描写があまりにも少なすぎる。最終的に靖子を自首に導くのは彼女の自殺未遂であるわけだが、作者はそこにいたるまでの彼女の心理には一度も踏み込まない。

 小説技巧的に考えて、もう少し美里の自殺未遂の伏線をしいておくのが当然なのではないかと思う。

 美里は 一貫して石神に好意を示し、石神に対して矛盾した心情を抱く母親を責めているようにも見える。しかしそもそもなぜ彼女はこれほど石神を信頼しているのだろう。

 考えてもみてほしい、靖子はまだ石神が自分に行為を抱いているという情報を得ているが、美里はそれすら知らないはずなのである。

 39ページにこういう心理描写がある。

 靖子は小代子から聞いた話を思い出していた。それによれば、この数学教師は靖子のことが好きらしい。彼女がいることを確かめてから弁当を買いに来るのだという。

 もしその話を聞いていなければ、石神の神経を疑っているところだ。どこの世界に、さほど親しくもない隣人を、ここまで助けようとする人間がいるだろう。下手をすれば自分も逮捕されることになるのだ。

 しかし、前述のとおり、美里は「その話を聞いていな」いのだ。それにもかかわらず、彼女は一瞬で石神が味方であることを見抜き、かれを信頼しつづける。そしてときにはこの状況でほかの男によろめく母を非難しているようにも見える。

 はっきりいってわりあい優柔不断な母親より美里のほうがよほど強烈な個性を秘めているようにも感じられる。それなのに、じっさいには美里の内面描写はいっさいない。非常に影が薄いのである。

 彼女が母をなじる部分も、なにかの伏線かと思いきや、そのまま宙に消えてしまった印象だ(最後の自殺未遂の伏線である、とすることはできるだろうが、それにしてはいかにも弱い)。

 そのくせ、二階堂さんが指摘しているとおり、石神が恋をする瞬間の描写では、あくまでもその愛の対象が親子二人であることが強調されている(以下、引用部分の強調はぼく)。

 ドアを開けると二人の女性が立っていた。親子のようだった。

 隣に越してきた者だと母親らしき女性が挨拶した。娘も横で頭を下げてきた。二人を見た時、石神の身体を何かが貫いた。

 何という奇麗な目をした母娘だろうと思った。それまで彼は、何かの美しさに見とれたり、感動したことがなかった。芸術の意味もわからなかった。だがこの瞬間、すべてを理解した。数学の問題が解かれる美しさと本質的には同じだと気づいた。

 彼女たちがどんな挨拶を述べたのか、石神はろくに覚えていない。だが二人が彼を見つめる目の動き、瞬きする様子などは、今もくっきりと記憶に焼き付いている。

 花岡母娘と出会ってから、石神の生活は一変した。自殺願望は消え去り、生きる喜びを得た。二人がどこで何をしているのかを想像するだけで楽しかった。世界という座標に、靖子と美里という二つの点が存在する。彼にはそれが奇跡のように思えた。

 一箇所ならともかく、これほど一貫して石神が「親子」の存在を愛していると記述するのはいかにも意味ありげだ。

 本文中で石神は一貫して母親のことを考えつづけ、娘のことはそれほど深く想っていないように見える。それなのに、なぜ結末にきてこのような描写が飛び出すのか。ここまでくるとこれは意図的なものと考えるべきなのではないか、と思えてくる。

 僕はこの小説を読みながら「実は石神と美里は以前から知りあいだった」という叙述トリックが待ち受けているのではないかと考えていた。結果的にはそれは大はずれだったわけだが、やはり結末部分の美里の自殺未遂は唐突だと思う。

 その理由としては「父親殺しの負荷に耐えられなくなった」「信頼していた石神が警察に自首したことにより、良心の呵責に耐えられなくなった」といったところが浮かぶ。

 だが、あきらかに母親より精神的に強そうな娘が、突然自殺未遂をこころみたとするには、この理由は少々弱い。石神を救いたいなら、親子そろって自首するという手もあることだ(彼女は石神がトリックのためにひとをあやめていることを知らない)。

 いったい彼女はなにを考えていたのだろう? 本文中の描写にもとづいて考えていけるのはここまでで、あとは空想するしかない。

 この小説を読まれた方は、石神のあまりにも苛烈な献身に対し、その聖なる対象である靖子があまりにも俗っぽく描写されていることに違和感を憶えたひとも少なくないと思う(はてなを巡っただけでも、その種の感想をいくつも見つけることができる)。

 上記のようなメタレベルでの考証以外なんの根拠もないことだが、この物語の真のヒロインは美里だったのだ、と空想をふくらませることはできそうである。

 といっても、石神が靖子を愛していたことは動かせない。それでは、美里のほうが石神に恋していたと考えてみてはどうだろう。

 まだ中学生の美里が石神のようなむさくるしい男性に恋をしていたとすることは、不自然に思えるかもしれない。

 だが、彼女の父親は、いちおうは美男の範疇に入る男だった。その父は彼女を苦しめた。こういう過去をもつ彼女にはひとの容姿などには惑わされず、本質を見抜く目がそなわっていた、と考えてみてはどうだろう。

 自堕落なじつの父親に対し、非常に頼りになる石神に理想の父親を重ねあわせていたということはありそうなことだ。

 美里は石神を愛していた――だから、かれがすべての罪を背負って刑務所に入ることは耐えられなかった。だが彼女は石神の愛があくまで靖子に向けられていることを知っていた。

 石神が靖子のために罪をかぶった以上、その献身を無駄にするようなことはできない。思い余って彼女は自殺をこころみた。つまり、「容疑者Xの献身」は二重の片思いの物語だった、と考えてみるのである。

 これはどんな意味でも「真相」ではない。なんの証拠もない。しかし、それほど大きな無理はしなくても、こういうふうに読むことはできそうだ、というだけのことだ。

 あるいは、二階堂さんが言うとおり、美里は石神にケータイでメールを送ったのかもしれない。その場合、石神と美里は以前から知りあいだったことになる。

 じつは、この考えかたにはちょっとした傍証がある。石神が「定休日以外は休む日はばらばらよ。曜日だって決まってないし」(10ページ)という靖子の休日を知ることができたのは、娘である美里から情報を得ていたからだと考えることができるのだ。

 美里はなにかのきっかけで石神の想いを知ることになった。そして、かれの思慕を応援していた。それは、石神に対する思慕と矛盾する苦しい行為だったのかもしれないし、あるいは、美里はただ頼りになる父親がほしかっただけなのかもしれない。

 美里が石神と知人であることを靖子に隠しているのは、このことを隠すためだ。美里から石神に情報が行っていたことを知れば、靖子は石神を嫌悪するようになるかもしれない。美里は、それを隠したかった――。

 くりかえすが、僕はべつにこれが正解だと主張するつもりはない。ただ、このように読むこともできるのではないか、といっているだけだ。そしてそれはやはり作家の意図したことなのではないかと思う。

 だが、あえていうなら、作者の意図がどこにあろうとあまり関係ない。これは読者の深読みを赦すおもしろい小説だ。それで十分ではないか。

 僕は小説に「正しい読み」とか「まちがえた読み」というものは存在しえないと思う。ただ、「豊かな読み」「貧しい読み」というものは、あるかもしれない。僕の読みが多少なりとも豊かなものであれば、さいわいである。