萌える男 (ちくま新書)

萌える男 (ちくま新書)

蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)

――宮沢賢治「永訣の朝」

 本田透によるシリアス版「電波男」。

 まだ読み終わっていない、というか、ぱらぱらめくって部分的に読んでみただけなんですけど、たぶん内容的には「電波男」とほとんど変わらないと思うので、とりあえずの感想を書いてみます。

 うーん、まあ、あれですね、「電波男」のようなネタ文体で書いてあれば「ああ、ネタなんだね」と笑いながら読めるけれど、真面目な文体で真面目に語られるとちょっとひきますね。

 「電波男」のときは「本田さん、どれくらい本気なんだろう」と思っていたんだけれど、これを読むかぎりけっこう真剣なんですよね。そうなってくると、やはり論理の飛躍が気になってくる。

 さすがに「宮沢賢治脳内妹に萌えながら誌を書いた萌えオタの元祖だ」なんて意見は即座に首肯しかねるからねえ。

 本田さんの理論でいちばん納得できないのは、あくまでも現実(3次元?)を虚構(2次元?)の先にあるものとして考える点です。

 本田理論によると、まず恋愛市場という戦場があって、そこでの敗残者が「萌え」に走っていることになる。これは虚構(あるいは「キャラ」)というものを過小評価していると思うんだよね。

 乱暴にいいきってしまえば、オタクとは、ある種のキャラクター画像に対する親和性がきわめて高い人間だといえる。

 単純な線と面が作り出す画像に「萌え」ることができるかれらの感性は特殊なものであるかもしれないけれど、それを現実空間における体験と短絡させるのは早計でしょう。

 キャラはキャラとして独立した命をもっているのであって、現実の模倣にとどまるものではないと思うのです。