黒い時計の旅 (白水uブックス)

黒い時計の旅 (白水uブックス)

 読了。

 しばしばスティーヴ・エリクソンの最高傑作とたたえられる一品。長年、幻の作品として未読者の垂涎の的になっていたが、めでたく白水社から再刊された。

 フィリップ・K・ディック「高い城の男」と並び称される〈パラレル・ワールド〉テーマの傑作――という触れ込みだが、僕はディックの作品を読んでいないので真実はわからない。しかしこれはやはり傑作というべきだろう。

 熱夢にうなされた患者のうわごとのように執拗な文体で、アドルフ・ヒトラーがヨーロッパを支配した「もうひとつの20世紀」を綴っている。

 歴史をひき裂いた男の名はバニング・ジェーンライト。インディアンの血をひくこの巨体の男は、家族を殺してニューヨークに移り住んだあと、自分のなかで荒れ狂う「暴力」を発散するように小説を書くようになる。

 その小説はある大物の目にとまり、バニングはその人物のためにより過激なポルノグラフィを書くよう依頼される。その謎の依頼人の正体こそはアドルフ・ヒトラー

 バニングが綴る物語はヒトラーを惑溺させ、かれのソビエト連邦侵攻を食い止める。結果的に破滅を回避したナチス・ドイツはイギリスを征服し、20世紀はふたつにひき裂かれていく――。

 あらすじ風に説明するならこういうことになるが、これほどこういった戯言が虚しい小説もない。恐ろしくいりくんだ筋立てと、過剰なまでに豊かな文章は、読むものを酩酊させずにはおかない。

 長く複雑な回廊を慎重にすすむうちに、読者はいつのまにか迷路に迷い込んでいることを悟る。その迷路の名前は「20世紀」。しかしこの迷路に出口はあるのか。この世紀に救済はおとずれるのか。それはじっさいに読んでもらうしかない。

 表向きはバニングの物語として進んでいくが、見方を変えるなら、この小説の本当の主人公はヒトラーである。ヒトラーは20世紀が産み落とした最悪の政治家だろう。数百万人の人間を虐殺し、ヨーロッパを軍靴で踏みにじった。

 しかしこの小説におけるヒトラーは20世紀そのものの象徴である。想像を絶するほど巨大な悪ではあるものの、ヒトラーは決して非人間的な、あるいは超人間的なモンスターではない。その長所も短所も、どこまでも人間くさい。

 バニングは愛する姪デリを失った心の痛手から立ち直れないヒトラーのために「神話」を書き、歴史を書き換える。読者はそのプロセスを通してヒトラーと20世紀をもう一度、べつの視点から眺めることになるのである。

 世界を席巻しようとしたものの、人間の良心と正義のまえに打倒された悪魔――といった単純な解釈はここでは無効化されている。年老いて弱り、無力な老人となったヒトラーのあまりにも人間的な姿は衝撃的だ。

 暴力と殺戮の20世紀が世紀が生んだヒトラーという人物を、僕たちの文明はまだ消化しえていない。ヒトラーが体現してみせた虚無と狂気はいまなお僕たちを呪っているのではないか。21世紀の今日も、僕たちは長くのびたヒトラーの影のなかを生きている。

 物語はやがてふたつの時空、ふたつの歴史の愛と融合を語っていく。この小説自体が、大いなる愛の物語であるということもできる。しかし現実には、暴力の20世紀、殺戮の20世紀、それは21世紀のいま、まだ終わってはいない。傑作である。