読了。

 物語は、ふたりの赤子から幕をあける。ケイロニア皇帝アキレウスの孫姫として、祝福のなかに生まれたマリニア。中原を血に染めた殺人王イシュトヴァーンの王子として、呪われた生を受けたドリアン。

 栗本薫の筆は、いっとき波乱の展開から離れて、ともに古い王家の血をひきながら、対照的な運命を背負った二子について綴っていく。しかし、その子の未来を想い、幸福であれとねがうおとなたちの想いに選ぶところはない。

 はたして、生まれながらにして多くの宿命をおびたこのこどもたちの将来に、いかなる事件が待ち受けているのか。すべてを知るのは運命の神ヤーンだけである。たぶん作者も知らない(笑)。

 いっぽう、放浪の豹頭王を捜し求めるケイロニア軍は、山火事につづく長雨のため足止めを食っていた。同行の魔道師ヴァレリウスは、ひそかにその陣中を抜け出し、ひとりグインを捜しつづける。

 しかし、そのとき、かつてない強大な「気」の波動がかれに襲いかかる。かれの師である白魔道師イェライシャと、〈闇の司祭〉グラチウスとがたたかっているのだ。中原でも指折りの魔道師たちの激闘に、山が震え、地が裂ける。風雲急の〈グイン・サーガ〉第103巻!

 ――なのだが、どうもユリウスが出てくると作品の品位が下がるなあ。初登場時のあの紅唇の悪魔はどこへいったのやら。どうも妙な愛嬌が出てきたようで、この先も登場しつづけそうだ。困ったものである。

 閑話休題。今回の見所はやはりグラチウスとロカンドロスのたたかいか。われらがヴァレリウスくんもこのなかへ飛び込んでいくのだが、完全に小物扱い。

 ふだんはとぼけているジジイどもではあるが、本気をだせばやっぱり凄いのだった。読んでいないひとはまあ、「ロード・オブ・ザ・リング」のガンダルフサルーインみたいなものだと思っておいてください。

 ヴィジュアル的には星船飛翔いらいのスペクタクルではないだろうか。もっとも、僕としては〈グイン・サーガ〉にスペクタクルを期待して読んでいるわけではなく、そういう意味では物足りない一巻だった。

 〈グイン・サーガ〉はそもそもヒロイック・ファンタジーとして始まった。しかし、ヒロイック・ファンタジーとはヒーローの行動によって切り開かれていく小説の謂である。多くの人物がであい、別れ、またであっては別れるダイナミズムによって動かされていくこの小説とは決定的に異なっている。

 たぶん、いまのこの小説のスタイルにいちばん近いのは、白井喬二「富士に立つ影」(読んでいるひといるかなあ)や、国枝士郎「神州纐纈城」といった昔懐かしい大衆小説ではないだろうか。その意味では、伝統的な作品といえなくもない。

 〈グイン・サーガ〉全編をふりかえるとき、一編の小説としての完成度は、おそらく外伝の「十六歳の肖像」か「ヴァラキアの少年」あたりが最も高い。そういった作品が作家栗本薫にとってもひとつの頂点であることはまちがいないだろう。

 いずれも文句のつけようがない傑作であり、これにくらべると中盤以降の物語は、文章にしろ、構成にしろ、崩れた印象が強く、ともすれば冗長になりがちである。しかし、僕はそれでも読む価値がある作品だと思う。

 〈グイン・サーガ〉の長い長い物語を通してみえてくる主題は、「平等」という理念だ。ひとの平等を、あらゆる不平等を通してえがいた小説。この作品を最も完結に要約するならそうなりそうだ。

 クリスタル公爵アルド・ナリスは美しく聡明に生まれ、モルダニアのアリストートスは醜く愚かしく生まれた。ヴァラキアのイシュトヴァーンは孤児として育ち、モンゴールの公子ミアイルは王侯として育った。

 この不条理。不平等。アルド・ナリスはこれを憂い、運命を呪った。イシュトヴァーンはこれを憎み、世界を焼きつくそうとした。しかし、その不均衡を激しく想うほど、かれらの生きざまは幸福から遠のいていく。

 その逆に、王子の身分を捨て放浪に生きるマリウスはいつも朗らかだし、名もなき一市民にすぎないゴダロ一家は、過酷な運命に翻弄されながらも、幸福につつまれている。

 いくつもの生き様を通してみえてくるのは、手に入れようともがけばもがくほど失われていくものの貴重さである。既に手のなかにあるものを、感謝とともに想うとき、はじめてひとの心は魂の平安を得る。あのアルド・ナリスがそうだったように。

 しかし、それは己の卑小を容認する生きざまであるともいえる。「たかが人間」にすぎない自分を赦し、運命に翻弄された人生を赦したナリスを、イェライシャは皮肉に語る。

 弱く愚かしい人間であることを受け容れ、幸福に生きるか。その平安と幸福のすべてに背をむけ、超人をめざすか。そのいずれをよしとすることもなく、物語は続いていく。そこにこそ、僕にとってのこの作品の魅力はある。