犬はどこだ (ミステリ・フロンティア)

犬はどこだ (ミステリ・フロンティア)

 読了。

広い意味では、ほとんどのミステリはコミュニケーションを主題としている。犯人が遺した痕跡をメッセージと捉えて、その意味を探偵が読解するという構造があるからだ。『犬はどこだ』の場合は、もう少し狭い意味でのコミュニケーションの物語である。では、どの程度狭い意味なのか、ということになると、ちょっとそれは書けないので勘弁してほしい。

さて、「コミュニケーションとはそもそもなんぞや?」などという問いを考察するときりがないので、ここでは「ある人物が自らの意図を伝えるめに、音声、文字その他の記号を発し、それを認知した人物が、記号の意味を読み取ることで発信者の意図を知るという過程」という通俗的な説明に留めておくことにする。目指す相手に意図がうまく伝わればコミュニケーションは成功したことになるし、伝わらなければ失敗したことになる。この区分でいえば、『犬はどこだ』はコミュニケーション成功の物語である。

そういうわけで、『犬はどこだ』は非常に爽快な物語となっている。セイコウするって気持ちいいですね。まあ、気持ちの悪いセイコウもないではないけれど。

 なるほど。まったくその通りで、特に付け加えることはない。未読のときはなんのことやらわからなかったが、読み終えてみると、納得がいく説明である。というわけで、未読の人は読むように。――で終えるのも何なので、蛇足を付け加えておく。

 2005年7月、米澤穂信は立て続けに2冊の本を上梓した。「神山高校古典部」シリーズの第3弾「クドリャフカの順番」と、本書「犬はどこだ」である。対照的ともいえる内容ではあるものの、二作とも水準以上の作品であり、その完成度は甲乙つけがたい。

 あえて一作を選ぶなら、個人的には「クドリャフカの順番」の楽しさを採るけれども、反対の評価を下す読者も多いだろう。愉快な学園小説だった「クドリャフカの順番」に対し、「犬はどこだ」は渋いハードボイルド探偵小説である。

 ジャンルとしてはネオ・ハードボイルドに分類されるらしいが、ハードボイルドといえばチャンドラーくらいしか読んでいない僕にはよくわからない。ただ、べつに突然マッチョ路線に転進したわけではないことはわかる。

 主人公は元銀行員の私立探偵、紺屋長一郎。ある理由から希望する職種を断念せざるをえなくなった彼は、なかばしかたなく犬捜し専門の探偵社を始める。予想だにしないことから人生の目標を断たれた彼は、心に癒しきれない空虚を抱えていた。

 25歳の若さでシニカルな倦怠感を抱えたそのキャラクターは、どこか「古典部」シリーズの主人公と重なる。ところが、犬捜し専門のはずの探偵社に舞い込む仕事といえば、失踪した女性の捜索に古文書の解読。

 あげくのはてに探偵にあこがれた後輩が使ってほしいと押しかけてくる。Trouble is not my business。だが仕事を選んではいられない。さっそく捜査に乗り出すと、無関係に見えたふたつの仕事は想像もしないところでからみ合ってくる。そして待ち受ける驚くべき真相――。

 ざんねんながら、この作品に関してはこの程度のことしか語ることができない。なにを書いても未来の読者の興を殺ぐことになりかねないタイプの小説なのである。

 はてなでこの作品の感想を見てまわると、「素人探偵の捜査がこれほどうまくいくはずがない」という声がある。また、「ふたつの事件の絡み方がいまひとつである」という意見もある。どちらも一理ある。しかし、この作品の眼目はそこではないだろう。隠された構造の美しさこそが、この小説を内側から輝かせている。

 また、主題的にみれば「犬はどこだ」は「愚者のエンドロール」や「さよなら妖精」の双生児といえる。米澤穂信は、どこまでも米澤穂信なのであった。それにしても、最初からこんな事件を書いてしまって、いったい次はどうするつもりなんでしょうね。

 この本ではまだ解決していない伏線(らしき情報)もいくつか残っている。気になるので、予告殺人はもうちょっと待ってほしいが、もう遅いかも。まあ、済んだことなら仕方がない。終わったことは止めようがないのだ。惜しいことをした。