fの魔弾 (カッパノベルス)

fの魔弾 (カッパノベルス)

 読了。

 もしめざめたとき、隣にふたりぶんの屍体が横たわっていて、そこにあきらかな殺人の痕が見受けられるとしたら、あなたはどうするだろう? しかもその部屋は何重にも閉ざされた密室で、犯行可能なのはあなたしかいないとしたら?

 その場から逃げ出して海外へ高飛びでもしないかぎり、あなたは殺人の容疑者として逮捕されて裁判にかけられるはずである。あなたがどれほど無罪を主張しても無駄だろう。無実を証明するためには、この密室を崩す以外にない。

 この物語の主人公はそれと同じ状況に置かれた旧友を救うため奔走する男である。しかしかれは捜査を進めるうち、その友人とまったく同じ危険にさらされてしまう。物語は過去と現在に分かれて、裁判の様子と男の窮状を交互に追いかけていく――。

 この状況設定はあきらかにカーター・ディクスン「ユダの窓」の変奏曲だし、突然の冤罪によって塀の中と外に分けられた男たちのドラマはコーネル・ウールリッチを思わせる。しかし残念ながら柄刀一ストーリーテリングは巨匠たちに比べ一歩譲る。

 まず、この過去と現在をパラレルに並べた構成がいまひとつうまく機能していないと思う。せっかく求刑までのタイムリミットを設けていても、あらかじめ未来の出来事を描いてしまっているものだから、もうひとつサスペンスが盛り上がらないんですね。

 おたがいにあいての論理の矛盾点を指摘していく裁判の場面は非常におもしろいのだが、これもあまりに短くて少々期待はずれ。全体にカーに似てカーに及ばず、ウールリッチに似てウールリッチに及ばず、という印象を禁じえない。

 カーもウールリッチも、決して完璧とはいいがたい作家だ。しかしかれらには物語をドラマティックに盛り上げていく才能があり、だれにも似ていない強烈な個性があった。それに比べると、塚刀一の端正さはあまりにおとなしすぎるようにも思う。

 もちろん、本格推理は表面上の派手さを競うようなものではないだろう。しかし、たとえばある構成なりトリックを思いついたとき、それをいかにして「小説として」魅力的なものにしていくか、いかにして間口を広げるか、それはとても重要なことだと思うのだ。

 ドイルもチェスタトンもクリスティもクイーンもカーも、あるいは江戸川乱歩横溝正史高木彬光も、みな優れた本格推理作家であるのと同じくらい優れた「語り部」だった。だからこそかれらの小説はときにベストセラーとなり、今日なお読みつがれている。

 「大衆には理解されない」と嘆くより前に、まず物語がもつキャパシティを最大限引き出すことを考えるべきなのではないか。小説としての魅力と、パズルとしての魅力は、必ずしも背反するものではないと思う。

 現代日本の部屋にあいた「ユダの窓」を探すトリックは、小粒ながらおもしろいし、決して退屈な小説ではないのだ。ただ、現在の形ではまだ物語がもつ可能性が掘り尽くされていないと感じる。いくつかの鉱脈がまだ手付かずになっていると思えるのである。

 人間的なドラマを描けとか、サスペンスがなければいけないといっているのではない。しかし、せっかくこれだけの魅力をもちながら、それが一部の愛好家だけに愛されえ終わるのはもったいないように思うのだ。たしかにまあ、むずかしいところでは、あるんだけどね。