荊[いばら]の城 上 (創元推理文庫)

荊[いばら]の城 上 (創元推理文庫)

荊[いばら]の城 下 (創元推理文庫)

荊[いばら]の城 下 (創元推理文庫)

 あたしはただ、やりかたを教えるつもりでそうした。だけど、くちびるを重ねて、モードのことを感じるうちに、〈紳士〉にキスされたら彼女の中に起こるはずだと言いきかせたとおりのことが、あたしの中に起き始めていた。頭がくらくらする。顔に血がのぼる。どんどん、どんどん、どんどん。酒のようだ。酔ってしまう。顔を離した。モードの息がくちびるにかかると、ひやっとした。あたしのくちびるは濡れている。モードのくちびるに濡らされた。あたしは喘いだ。
「感じますか?」

 「犬は勘定に入れません」をちびちび読みながら、平行して読みはじめた。現在、第1部の終わり、上巻263ページ。2004年度の「このミス」第1位、ヴィクトリア朝英国を舞台としてディケンズばりの物語を紡ぐサラ・ウォーターズの大作である。クイーンやカーのような古典を除くとふだんはめったに読まない翻訳ミステリでもある。

 主人公は灰色の魔都大ロンドンで掏りをはたらき泥棒の片棒を担ぎながら生きてきた孤児の少女スウ。男盗女娼のこの街で、しかし愛情をこめて育てられた彼女に、あるとき仲間うちで〈紳士〉とよばれる天才的な詐欺師が結婚詐欺の協力をもちかけてくる。

 勝てば巨万の富、負ければ刑務所(あるいは絞首刑)が待っている危険な賭け。スウは勇気を出し〈紳士〉の片棒をかつぐことにするのだが――。

 この小説の舞台は時代的にも場所的にも「犬は勘定に入れません」とそう変わらないはずなのだが、コニー・ウィリスサラ・ウォーターズのロンドンはまるでべつの街のように見える。

 ウィリスはテムズ川周辺の、ゆたかな自然に恵まれ、魚や動物たちが群れあそぶ美しい地域(おまけにロマンティスト病にかかった未来人の目で見るからなおさら美しく見える)を中心に描いている。

 それに対し、ウォーターズが描き出すのは、貧しく、薄汚れたロンドンの下町だ。泥棒やら詐欺師やら娼婦やら、その泥棒の上前をはねる男女やら、怪しい連中が騙し、騙されているこの裏のロンドンは、これはこれで魅力的である。すぐに物語は〈紳士〉があざむこうと試みる娘モードがすむ城に移るのだが、この城がまたいいんだな、これが。

 大都会倫敦からはるかに遠い、荒涼とした平原のかなたの巨大で、しかも陰鬱な城。そしてその城に住む書痴の城主と、かれにより城に幽閉された少女。

 なんともいえずゴシックな物語背景で、これだけでご飯三杯はいけそう。この怪異な城を舞台に、乗るかそるかの大博打、命がけのコンゲームの幕が開く。開くのだが――うーん、なんなんだこの萌え展開は。

 絹敷きの牢獄さながらに空虚な部屋で半生をむなしく暮らしていたモードと、生き馬の目を抜くストリートでたくましく生き抜いてきたスウ、ふたりのあまりにも対照的な少女のあいだに、起こるはずのないことが起こる。そして待ち受けるまさかまさかの大逆転。思いもつかない変転のなかに叩き落されたスウの運命はどうなるのか? 以下次号。