ブルータワー

ブルータワー

 読了。

 Once upon a time,long long ago――お伽噺の始まりはいつも同じ、いつともどことも知れない「昔むかし」を舞台に、浪の王子や塔のうえの姫君の物語を語るのだ。

 石田衣良初のSF小説「ブルータワー」もそんな御伽噺の系譜につらなる一作といえるかもしれない。不治の脳腫瘍にかかり、一ヵ月後に死を控えたひとりの男の精神が、なぜか200年後の世界へ飛んでしまうところから物語は始まる。

 「黄魔」とよばれる人工進化したインフルエンザ・ウィルスによって一度滅亡したその未来社会では、高度2000メートルに及ぶ七つの塔が聳え立っている。そしてその塔の上層階の住人と下層階の住人、さらにはウィルスが荒れ狂う地上とでは、巨大な経済的技術的格差が存在していた。

 主人公は七つの塔のひとつ、青の塔の支配者「三十人委員会」のひとりセノ・シューとしてこの世界の上下問題を解決しようと尽力するのだが――。

 プロットはほとんどジュヴナイル的なまでに素直だが、語り口はいつもの石田衣良、あいかわらず抜群に読みやすく洗練された文体に乗せられて、ジェットコースターのようにスピーディに物語は進んでいく。

 ただ、いかにもSFらしい筋立てではあるものの、世界観にしろ、小道具にしろ、斬新なアイディアであるとはいえないだろう。未知のものと出逢うよろこび、Sense of wonderこそSFのかなめだとするならば、この物語にはほとんどそれはない。

 七つの塔の世界は僕たちがあまりにもよく見知った無知と差別と暴力と理不尽で構成されている。著者によるあとがきを読むまでもなく、高度2000メートルの塔が9・11で倒壊した双子のビルの暗喩であり、塔の世界の上下問題が現実社会の南北問題の投影であることはあからさまだ。

 この小説はSFである以前に一種の寓話なのである。荒野と化した世界に突き刺さる塔のイメージもそれほど独創的なものではない。スティーヴン・キングの「ガンスリンガー」や古橋秀之の「ブラックロッド」に、僕たちは類似したヴィジョンを見ることができるだろう。

 しかし石田衣良があえていまこの物語を物したのは、みずから語るように、9・11以後の現実に抵抗しようとしたからに違いない。

 「ハリウッド的想像を模倣した」巨大ビル倒壊の映像は、その後の物語創作にも大きな影響をあたえた。とりたてて鋭い感受性の持ち主でなくとも、あの空虚なまでに映画的な絵を見せられたあとは、あたりまえの現実がいかに脆い土壌のうえにできあがっているのか、思いをめぐらさずにはいられなかっただろう。

 それが作家なら、なおさら、みずからのペンの力について考え込まずにはいられないだろう。圧倒的に過酷な現実に対して、物語に何ができるか。世界に荒れ狂う狂気の暴風を前にして、夢と空想にどれほどの力があるのか。

 これから物語を綴るものは、すべてその問いにこたえることを要求されるだろう。たかが小説、夢物語。ぼくたちの現実には冒険らしい冒険はなく、ただ灰色の日常が続いているばかりなのに、架空の冒険物語が、刹那の快楽を越えて、本当の感動をあたえることがありえるだろうか。

 それとも小説とは、絶え間ない苦しみをひとときでも和らげる阿片に過ぎないのだろうか。それこそ小説の果たすべき真の役割だとひらきなおればいいのだろうか。

 そうかもしれない。しかし、べつの答えを選ぶものもいる。たしかに現実の悪夢に対して、物語は無力だろう。どんな傑作も戦争を止めることはできない。しかし、それでもなお、書くことによって夢と空想の力を伝えようとする作家もいるのだ。

 そうして、星の数ほどの作品が生み出されてきた。「ブルータワー」もその歴史にあらたな一ページを刻むことになるだろう。これまで生まれた無数の物語、これから生まれる同じく無数の物語、この物語はそれを繋ぐ橋なのだ。この御伽噺を描くことによって、石田衣良はその道を選んだ。

 「ブルータワー」の弱点は、塔の世界が、池袋の雑踏ほどに魅力的とはおもえないことだろうか。

 この小説はあくまでもストレートなエンターテインメントであり、いかにも石田らしい鋭さや、残酷さに満ちあふれてはいるものの、「池袋ウエストゲートパーク」のように、舞台そのものがなにより魅力的なキャラクターとして君臨するまでには至っていない。

 物語もご都合主義が過ぎるような気がする。しかし、黄魔に感染した幼い少年が塔のなかで射殺される場面は胸に染みるものがあった。なぜだろう。鮮烈な痛みと哀しみと苦しみに彩られてこそ、空想の架空の世界は真実の彩りを帯びるのである。