審判の日

審判の日

 読了。

 山本弘の作品はこの世界に対する微妙な違和感から始まることが多い。その違和感が次第に膨れ上がっていってついには異形としか言いようのない妄執にまで育ってしまう。

 近頃ではすっかり「と学会」の会長として著名になってしまった山本弘のSF&ホラー短編集。

 しかしぼくは「ソードワールドRPGリプレイ第一部」のころから読んでいるので(ザボとケッチャは結局どうなったのだろう)、山本弘といえば「こちらの人」というイメージがある。

 山田正紀がいうように、収録された五本の短編はすべてこの世界のありように対する根本的な懐疑にねざす恐怖を題材にしている。ひとがこの世界に対してなかば無意識にいだいている常識や思い込み、そして安心を、山本弘がもつ論理の槌はもろともに打ち砕く。

 たとえば巻頭作「闇が落ちる前に、もう一度」。物理学者である主人公は、あるときひとつの仮説を考えつく。宇宙はビッグバンによって誕生したのではなく、極大エントロピーのなかで、奇跡的偶然から生まれたのではないか? そしてその理論はかれ自身の心をずたずたにひき裂いていくことになる――。

 あるいは、かれに対し殺意をいだく人工知性とそれとしらず向きあうことになった男優が極限の恐怖と苦痛をあじわうことになる「時分割の地獄」のクライマックスは、小説技法的な意味でもちょっと衝撃的だ。ここでは主人公のアイデンティティは粉微塵にまで粉砕されている。

 恐怖と戦慄、そして常識をくつがえされる驚きにみちた短編が五篇。しかし、それにもかかわらず、ぼくはやはり一抹の物足りなさを憶える。

 この不足感はおそらくかれの小説の明晰さや読みやすさと裏腹のものなのだろう。わがままな話だが、すべてが緻密に、理知的に、正確な効果をねらって配置されているからこそ、かえって物足りなさを憶えるのだ。

 「闇が落ちる前に、もう一度」の主人公は、あまりにもあっさりと異常な真実を受け容れてはいないだろうか? あるいは「審判の日」の結末は淡々と進みすぎてはいないか? つくづく、小説とはむずかしいものだ、と思う。