語り女たち

語り女たち

 読了。

 実務家の弟と比べ、彼にはいささかの空想癖があった。
 サイダーの泡が、コップの壁面から離れ、勇ましく上方へと飛翔し、やがて水面に達し、わずかの間とどまっては弾け散る。その姿に星々の生誕から死を重ね合わせ、打ち続く興亡に、飽かず眺め入っているようなところがあった。

 本格の詩人北村薫が、ほっとため息が漏れるような美美しい言葉ばかりを束ね、麗麗と語り綴る神秘と幽玄のものがたり。

 変わりばえせぬひびに倦怠した、シャハリザール王ならぬある放蕩の空想家が、シェハラザードならぬ語り女たちを集め、一夜の退屈しのぎに奇妙奇怪な体験を語らせるところから、この現代のアラビア夜話ははじまる。

 むろん北村の世界にあの豊饒なエロスとタナトスはない。剣戟と陰謀、燃えさかる炎のごとく激しい愛憎の一幕もない。ひとり、またひとりと空想家の家をおとなう語り女たちが話すのは、みな、あでやかでふしぎな「謎」にいろどられた話ばかり。

 しかしここにそのからくりを解きあかす名探偵はいない。謎はただ粉雪のようにしずしずと降りつもり、読むものを幻惑する。北村の既刊のなかでは、そう、「水に眠る」が最も近いだろうか。

 しかし、千夜一夜の物語に擬せられたこの小説は、あの奇妙な短編集よりもさらに輪郭があわあわしい。

 北村はこの作品で直木賞の受賞を逸したが、これが近代小説の樹のゆたかな果実というよりも、ひとがよりふしぎに近かった往古の御伽噺に似ていることを考えれば、それも惜しむべきこととはいえないだろう。御伽噺にすぎぬ小説にとって、権威からの賛迎など、笑止なものではないか。

 北村がその鋭敏な感性を縦横に駆使し、辞書の森から伐採してきた言の葉の数かずは、妖しいまでに美しく、艶やかで、それでいて清流のように澄みきっている。

 この本を読むものは、おなじ日本人が、おなじ日本語を使って書く、そのどこでこの幽玄が、この清澄が、生まれいずるのかと首を傾げるだろう。あるいはそれこそ言葉という、詩という魔術がもつ最も巨大な謎なのかもしれぬ。

 いずれにせよ、いまわたしたちの前にあるこの世界は、緑柱石の森や青玉の河よりも爽涼だ。さあ、わたしたちも名の知れぬ空想家に倣い、日常の雑念をはらって、語り女たちの話に耳を傾けることとしよう。