身も心も 伊集院大介のアドリブ

身も心も 伊集院大介のアドリブ

 読了。

 栗本薫の小説はしばしば──否、ほとんどつねに神に選ばれた祝福の童子と、かれを守り、支え、その遥かな天上を視上げる澄んだひとみをわずかもくもらせまいとする人びとの対立と愛憎と融和の物語であるわけだが、この作品も或る天才とかれをとりかこむスタッフが、すこしでも良い音楽を、きくものの心に直接に訴えかける魂の咆哮を、この穢れた地上のすべてをその煌きでみたしなお彼方へと広がっていくような音楽のみになしえる奇蹟を、とのぞみながらよくそれをはたしえず苦しみ、ときにおたがいを傷付け、ときに反目しあいながら、しかしそれでもなお音楽というこのひとつの魔法、少年たちの藍色の哀しみもおとなたちの灰色の憎しみも、ひとの魂を呪縛するすべての地上の重力を断ち切り人間をそこから解放する如何なる麻薬よりも麻薬的なミューズの魔法のためにすべてをささげて、ついには生命の小昏い歓喜にみたされた祝祭を演じるにいたるまでの遍歴の物語である。

 って──なにいっているかわかりますか? 書いていて自分で主語がわからなくなるところだった。まあ、身も心も、ボディ&ソウル、ということで今回は名探偵伊集院大介と天才ジャズミュージシャン矢代俊一の物語です。

 矢代さんは20年ちかく前に書かれ映画化もされたジャズ小説「キャバレー」の主人公なのですが、小説のなかでも時は無情に過ぎ去ってゆくわけで、往時、その身の丈にくらべて大きすぎる野心ばかりをかかえた白皙の少年だったかれも、この小説のなかでは声望と実績を確立した40歳ちかいプロミュージシャンとなっています。だからといって人間的に成長したわけではありませんが。

 「キャバレー」のあとの矢代はぼくは未読だけれど妙に世評は高い「キャバレー2 黄昏のローレライ」に出演したり、「朝日のあたる家」の最終巻に名前だけ登場したりと、元気でやっていることだけははっきりしていたのですが、今回はこの歌うことに呪われた〈笛吹き〉と伊集院大介のただいちどきりのジャムセッションということになります。

 このところわりと低調だったこのシリーズですが、これはおもしろかった。一作の完結した小説として全体を振り返ってみればどうもバランスが悪く、お世辞にも完成度が高いとはいえないのではないかと思うけれど、とにかくおもしろかった。

 つまるところ伊集院大介の物語とは伊集院大介の物語ではない、大介はいつも「脇役」、舞台の中心に立ち光をあびる主役を世界の悪意から守り、ときにはかれの無二の名演に喝采を送る最上のバイプレイヤーなのだと思います。

 「絃の聖域」の主役は「芸」そのものだし、「優しい密室」「鬼面の研究」の主役は森カオル、「猫目石」で舞台の中心にあがるのは栗本薫(作中人物のほう)で、「天狼星」の中心はもちろん怪盗シリウス、「仮面舞踏会」の主人公はアトムくんんこと滝沢稔、そしてまた「新・天狼星」「真・天狼星」で舞台の中央で喝采を受けたのは天才俳優竜崎晶、

 伊集院大介自身が舞台の中心にのぼりドラマを演じたのはたぶんかれがまだ14歳だったころを回想した「早春の少年」くらいのものなのではないでしょうか。

 犯罪者は芸術家だが探偵は批評家にすぎぬ──とはチェスタトンの小説に出てくる言葉ですが、それにしてもここまで徹頭徹尾黒子にあまんじる探偵も珍しい。

 しかもそれでいてかれはやはり無二の個性と能力を秘めた「名探偵」であり、すべてがクライマックスへ向かうとき、かれがようやくさっそうと舞台にあがり、「さて今回の事件は──」と解説してくれなければなにも終わらないこともまた事実なのです。

 だから伊集院大介シリーズのおもしろさはひとえに「主役」の演技にかかっている。で、今回の「主役」である矢代俊一はさすがほかのシリーズの主人公であるだけあって、頑張った。だからこの小説はおもしろかったのですね。

 この長編の見所は、音楽のあたえる祝福とうらはらの苦痛に悩み喘ぎまわりにまでその苦しみを振りまいていた矢代が、ついにすべてのくびきから脱してサックスを吹く場面、そこに尽きる。

 ひさびさに「栗本節」爆発の名場面です。ほとんど意味情報の伝達という目的を超越してこれでもかとばかりにふきあれる言葉の暴風雨は、恐ろしいことに文字で表現できるはずのない音楽をあるていど表現してしまっている。

 矢代俊一がその場でどのような音楽を演奏したか、わかるような気がするのです。魂の絶頂、恐ろしいまでの歓喜。そして情熱。そしてそのミューズの寵児だけがあじわえる至福のエクスタシーの果ての熱的死。そういうものが伝わってくる──ような気がする。

 そもそも小説の言葉とはそれじたいがひとつの音楽でなければならないものなんですけど、これほどリズムの「風圧」を感じさせる文体というものもないでしょう。

 まあこのひとの文章が日本語の文章として正しいものなのかといえばおそらく正しくはない、まちがえても教科書に載せてはならないような文章だとは思うのですが、しかしいっぽうではたしかに唯一無二の個性であり、たとえ或る意味では非常に歪んでいて、それをきらうものにははてしない嫌悪をあたえるとしても、たまたま波長があったひとにとってはセイレーンの歌声にひとしいものともなる。

 まあ、これはこれでひとつの才能ではあるんだろうなあ。やっぱり。冒頭の文章はそれを模倣てみたんだけれど、あんなもの書けるかい。ぼくのほうはいたって正常な人間だからね。