ホーリーランド (1) (Jets comics (846))

ホーリーランド (1) (Jets comics (846))

 読了。

 「ヤングアニマル」で連載しているものをリアルタイムで読んではいたんだけれど、うろおぼえのところもあるので今回あらためて単行本で纏めて読みかえしてみた。おもしろい。

 よくある格闘漫画の一種ではあるのだが、この作品の主題は超人たちによる超絶的なバトルではなく、ストリートにおける、ある意味ではごくありふれた「喧嘩」である。

 主人公が繰り出す技や戦いかたのひとつひとつにちょっと胡散臭い解説がつくのが売りで、「ほんとかよ」と眉に唾を付けたく内容ではあるのだが、これはどうも実際に作者が実戦で体験したものをベースにしていることは間違いないらしい。なにせ、ほら、グリフィスのモデルですから。

 そもそもそういった細部がどこまで現実的であるかということは、作品の評価のうえでは実はほとんど問題ではない。

 なにもかも現実的なほうがおもしろいに決まっていると考えるような人間は、そもそも漫画など必要としないはずである。

 たとえそれが現実にはありえないことだとしても、仮にそういうことがありえたとしたらどうなるのかという事態をシミュレーションしていくことはできるし、それこそが漫画の想像力というものだろう。

 もちろん実際には中国拳法の達人だろうがボクシングの世界チャンピオンだろうが「数」という絶対的な暴力には勝てない。

 おそらく数十人がかりでかかればどんな屈強な格闘家でも膝を屈することになるはずだ。

 しかし、仮にひとりの人間が極限まで肉体を鍛えることによって、軍事力も科学力も超越した絶対的な強さを獲得できるとすれば、どのような事態が発生するか──そうシミュレートしていくことは可能である。

 僕は「バキ」がやっているのはそういうことだと思っている。これはたとえば「サトラレ」が、「もし思考が外へ漏れていってしまう体質の人間がいたらどうなるか」というひとつのイフを基点にして物語を紡いでいることと似ている。

 つまりあの漫画は、見方を変えれば一種のSFなのだ。

 しかし「ホーリーランド」はそこまで荒唐無稽ではない。この作品の基盤になっているものは、「強さ」とは所詮どこまでもいっても相対的なものでしかないというクレバーな現実認識である。

 身体を鍛え、武器を身につけ、格闘技を習得すれば、ひょっとしたらひとりで10人を倒せるようにはなるかもしれない。

 だが、相手が20人なら? あるいは50人ならどうだろう? どこかにかならず絶対に勝てないポイントが存在するはずだ。

 「バキ」は「もしそれが存在しないとしたら?」というイフを公然と掲げるが、「ホーリーランド」はあくまで現実の枠内で問題を見つめる。

 したがってここで主人公がめざすものは、決して抽象的な「最強」の理念ではない。自分があたりまえの自分でいられる場所──かれにとっての「聖地(ホーリーランド)」である。

 藤本由香里に「わたしの居場所はどこにあるの?」という少女漫画評論集がある。すべての少女漫画の根幹には「わたしの居場所はどこにあるの?」という自己探求の心理が存在するという視点から斯界を切り取った名著なのだが、ここで言う「居場所」と「ホーリーランド」で語られる「聖地」とはおそらくほとんど同じものだろう。

 さらにいえば、僕が以前ビジュアルノベルゲームのなかに散見されるとした「仲良し空間」や、先日話題に挙げた「スチャラカクラブ」とは、この「居場所=ホーリーランド」を自分が帰属する集団のなかに見出そうとしたものにほかならない。

 この種の「居場所テーマ」の作品には、大きく分けて、スチャラカクラブ系作品のように、そういった安全で心地よい場所を学校空間に求めるパターン、「めぞん一刻」や「麒麟館グラフィティー」、「フルーツバスケット」などのように家庭的住居空間に求めるパターン、そして「銀河英雄伝説」や「ジオブリーダーズ」のように職場空間に求めるパターンがあると思う。

 しかし、「ホーリーランド」のようにストリートにそれを求めるパターンは、ちょっと斬新かもしれない。

 すぐに思い浮かぶのは石田衣良の「池袋ウエストゲートパーク」だが、あの作品の主人公はどちらかといえば一匹狼的なハードボイルド探偵の系譜に連なるキャラクターで、仲間とつるむことはあっても、集団に依存したりはしない。

 「ホーリーランド」は、格闘漫画でありながら、はてしないヒエラルキーの上昇という夢を離れて、もっと繊細な主題に乗り出した作品である。

 主人公が最終的にどこに「聖地」を見出すのか、興味は尽きない。これもまた新時代の到来を告げる作品であるのだろう。