珠玉

珠玉

 読了。

 いつかメールで推薦してもらった一冊。それぞれみっつの宝石を中核に据えた三篇を収録した短編集である。

 なんだかぼくは最近みじかい小説ばかり読んでいるような気がする。どうやら歳のせいで大長編に手を出す気力が磨耗してきたらしい。

 十代のころは千頁を越える長編でも嬉々として読んでいた記憶があるのだが、それはもう遠い遠いむかしの話で、いまでは長大な作品に目を通すことは億劫に思えてしかたない。

 そもそも僕はなるべくなら字で埋まった本など読みたくない。ただどういうわけか、読まずにはいられないのである。病気かもしれない。

 それはともかく「珠玉」。僕はいままで開高健の小説を読んだことはなかったのだが、おそろしく美しい言葉を遣う作家だと思う。

 しかしそれも当然、ここに収録された三篇はいずれも「美」についての物語なのだから。ここでは主題も哲学も脇役にすぎない。おのおのの宝石の澄明な純潔の美こそが堂々と主役を張っていて、人間たちは脇役ですらなくほとんどたんなる観客にすぎない。

 かれらはそれらが怒りも嘆きも歓びも哀しみも超越したはるかに高い天上で蒼然とくるめくさまをただ茫然と見上げるばかりだ。

 南海の青を宿したアクアマリン、燦爛たる炎を固めたガーネット、静かな月光を凝らせたムーンストーン、いずれの宝石もひとつの精妙な世界をその内側に収めた卵であって、たとえ物質としては人間の手のなかにあっても、その本質は永久にひとの手がとどかないところを浮揚している。

 開高健は美辞麗句を尽くしてこれらの珠玉の神秘を語り尽くそうとするが、ぼくたちがこの小説に賛嘆するのは、むしろ宝石の冷澄な美質がついには言葉が辿り着けない高みにあることをかたく感得させられるせいなのかもしれない。

 そう、美とは、詩とは、花火のようにまたたくまに咲いては散る儚い幻にすぎない。論理では捕らえがたいからこそ、ぼくたちは少年が蝶をもとめるようにそれを希求してやまないのだろう。

 たとえみつけ出せたとしても、てのひらでつつんだ途端にあっというまに消え去ってしまうこともよく知っているはずなのに。

 獲得と喪失のくりかえし、天外の美景と凡庸の日常を揺れうごく振り子運動。たぶん、それが、生きるということなのかもしれない。ちがうかもしれないけどね。