失はれる物語

失はれる物語

 読了。

 乙一の最新短編集。しかし収録作6作のうち5作までは既刊の本から再録した作品なので、純粋な新作は巻末の「マリアの指」ただ一篇である。

 ほかの収録作はすべて角川スニーカー文庫から出版された3冊の短編集から採ったもので、当然、既に僕は読んでいる。したがって私が今回はじめて読んだのは「マリアの指」のみだ。

 もし「マリアの指」が収録されていなければ僕はこの本を買わなかっただろうから、なかなかダーティーなビジネスともいえる。いかにも角川書店らしい。ともかく未読のかたには文庫版のほうを購入することをお薦めしたい。

 そうすれば本書1冊を買うお金で3冊も買えて本書には未収録の佳品をいくつも読めるうえに、羽住都の挿絵まで付いてくる。どう考えても文庫版のほうがお得である。

 この本は小説に挿絵が付いていることそのものを低俗と考える世代にむけて編まれたものなのだろうが、そういったひとが「華歌」を読みのがしていることを考えれば、それだけでもその偏見の有害さがよくわかる。

 もっとも、「マリアの指」一篇のために両方とも購入する羽目になった僕がいっても説得力に欠けるかもしれない。この短編は現時点での乙一の最新作だ。

 恬淡とした、しかしそれでいて異様に鋭くあざやかな文体の切れ味はいつも通りながら、世界はより暗みを増し、いまにも底なしの闇黒のなかに呑まれようとしているかのように見える。

 しかし同時にはるかな高みを見つめるまなざしはいよいよ澄みわたり、それは読者をほとんど宗教的といいたいような境地へと誘う。

 思う。ひょっとしたら僕たちはまだこの作家の本領を見ていないのかもしれない。この若き作家の天才はほんとうはいま芽生えはじめたばかりなのかもしれない。

 はたして僕は生きてかれの到達点を見ることができるだろうか。どうやら、ほんのすこし生きていることが楽しみになってきたようだ。