きみとぼくの壊れた世界 (講談社ノベルス)

きみとぼくの壊れた世界 (講談社ノベルス)

 読了。

 とんでもない小説だなあ、これは。

 ちょうど「Fate」が終わりそうなのでそれと比較してしまうのだが、奈須きのこ西尾維新の作風は性格が正反対の双生児のように似ていると思う。

 表面的にはかぎりなく相似していながら本質的には対極。

 その立ち位置は萌えムーヴメントの両極にあるので、萌え民はこのふたりの作品だけを読んでおけば、ほかのアニメとかゲームとか漫画なんかはべつに触れる必要がないかもしれない。

 すくなくとも僕は「Fate」とこの作品を読んでいわゆる「萌え」的な作品に関する興味が薄れていくのを感じている。

 この二作品のなかに「萌え」の両極端を見てしまった、という気がするのだ。すなわち「依存」と「自立」の極をである。

 「依存」を担当するのは「きみとぼくの壊れた世界」。この作品はいままさに一線を越えようとしている兄妹の危険な関係に殺人事件を絡めて学園ミステリに仕立て上げているのだが、その妹の兄への依存ぶりは驚異的である。

 そもそも「萌え」とは依存的人間関係を苗床にして咲く妖しい花だ。

 この業界では完全に自立していてひとりでなんでもできるようなキャラクターは人気が出ない。

 したがってビジュアルノベルの世界ではヒロインを主人公に依存させるためにさまざまな設定を持ち出してきている。

 不治の難病にしてみたり、廃棄寸前のアンドロイドにしてみたり、未来人にしてみたり、と超日常的な設定のオンパレードである。

 現在、それはユーザーの要求に応えてさらにさらに先鋭化しつつある。

 だが、それでもこの作品の妹キャラほど依存性の強いキャラクターはまずいない。これではいくらなんでも読者は萌えを通り越して引いてしまうからだ。

 このキャラクターは性格的には普通の萌え妹(なんだそれ)なのだが、とにかく兄なしでは生きていくことができない。

 たぶん兄が拒絶したらそれだけで死んでしまうだろう。主人公と彼女の関係性はグロテスクなまでに歪んでいるが、これはあきらかにわざとやっている。

 そう、この小説で西尾が取り組んだのは「萌え」の戯画化なのだ。

 「きみとぼくの壊れた世界」。現代ミステリを切り取る重要なキーワードをふたつも嵌め込んだ象徴的なタイトルからわかるとおり、本書は現代の「壊れた世界」を描こうとするメタビジュアルノベル的な学園小説である。

 西尾の代表作である戯言シリーズの主人公が徹底してはぐらかしに終始し本心を見せようとしないのに対し、この作品のキャラクターの台詞は一貫して率直だ。

 だが、その言葉のひとつひとつはいちいち歪んでいる。病んでいる。狂っている。しかしその歪みと病と狂気にもかかわらず、否だからこそ本作は予定調和的な幸福な結末へとたどりつく。

 嘘と依存の輪舞のすえにたどりつく「えんでぃんぐ」の光景はちょっと正視できないほどグロテスクだ。

 しかし、と西尾は無言で読者へ問いかける。歪んでいてなにが悪いのか? 病んでいてなにがまずいのか? 狂っていてなにが問題なのか?

 僕の答は当然「なにも悪くない」だ。嘘と偽りに満たされた「仲良し空間」は同時にこのうえもないほどのやすらぎと幸福でも満ちているのだから。

 だが――とも僕は思う。やはり、歪みではたどり着けないものもある。病では克服できない境地もある。狂気では獲得できない誇りもある。

 幸福とやすらぎを選ぶのなら、それは棄てなければならないのだろう。これは「Fate」をプレイしたからこそ思うことだ。あの作品はある意味でこの作品の影絵である。

 一応本格ミステリでもあるのだが、僕は解答編を飛ばしてしまおうかと思ったくらいなので、ミステリ的要素抜きでも充分に楽しめる作品であることはまちがいない。

 僕は病院坂黒猫とちがっていくらでもわからないことを放置できるのである。ミステリとしてみれば、たしかに「あの描写」はアンフェアだろう。どうでもいいけどね。

 それにしても夜月、いい本の趣味しているな。国枝士郎読んでいる女子高生なんて一万人にひとりくらいしかいないぞ、たぶん。