熱砂の放浪者―グイン・サーガ(93) (ハヤカワ文庫JA)

熱砂の放浪者―グイン・サーガ(93) (ハヤカワ文庫JA)

 読了。

 今回は実質的な登場人物がわずか3名という超ストイックな砂漠放浪編。

 まあとりあえず前巻どこかへ消えてしまったグインが行方不明になったままでなくて良かったな、と(笑)。

 ノスフェラスに行ったのだろうということは大体想像していましたが、ひょっとしたらどこかの異世界へ向かったのかもしれないと思っていたのでそういう意味ではちょっと拍子抜けかも。

 星船に関する謎解きがいよいよ始まりつつある模様ですが、僕はそういう現象面での謎解きにはそれほど興味がありません。

 サイエンス・フィクションの側面に関しては栗本薫のセンスはごく前時代的なので、それほど期待するものはない。

 それよりも、テーマですね。最初期の辺境編とか外伝1、2巻あたりはよくも悪くも正統派のヒロイック・ファンタジーで、かなり勧善懲悪的な世界観だったんだけれど、もはや善悪はさだかならず、死と滅びすら受け入れるべきものとして描かれているように思えます。

 ヤンダル・ゾックにせよ、アモンにせよ、邪悪といえばいえるにせよ、本質的には現在のグインの立場にとって敵対する存在であるというにすぎず、絶対悪とはいいきれないでしょう。

 今回グインの旅の同行者となる〈闇の司祭〉グラチウスだって多くの無辜の人々を不幸のどん底へ突き落としてきたはずなのですが、グインはいまさらそれを咎めようとはしない。

 いまやこの世界にあって善と悪はあまりにも紙一重です。今回はグインが蜃気楼の少女へ向けて語る「すべての死はひとつなのだ」という言葉が印象に残りました。

 はるかなる中原ならず、同じように紛争に満ちたこちらの世界のこととして受け止めるならば、自爆テロによる死も、SARSに罹患しての死も、原爆投下による死も、あるいは年老いてベッドのうえで迎える死も、すべてはひとつであり、同じように不条理なのだ、ということでしょうか。

 そして現象面においてはかれらを殺したものはダイナマイトであり、ウイルスであり、原爆であり、加齢であるとしても、実際には、個人の視点を超越したおおいなる観点から見れば、かれらを殺したものの正体は実は「宿命」の白く冷たい繊手である、ということなのだと思います。

 生まれ落ちたものは死ななければならない。それがこの世の冷厳なるさだめ。だからこそアルド・ナリスもアリストートスも同じように死に、王侯貴族も乞食も同じように死ぬ。

 それこそがひとの身の窮極の孤独であり、運命である。その絶対の不条理を受け入れることこそ人間にとって運命を受け入れることなのだ、という──。

 それはアルド・ナリスやイシュトヴァーンが、それぞれのやりかたで「なぜだ。なぜ自分はこのように生まれ、そして死んでいかなければならないのだ」と宿命へ向かって問いかけたのはあまりに対照的なありかたです。

 しかしおそらくはそれこそが人間にとって唯一の幸福なのです。有限を受け入れ、運命を受け入れ、不可能な野心を捨て、あたえられたものに感謝して生きていくことこそが。

 ナリスが不自由と敗北とかなわなかった夢で満たされた人生を、それでも幸福のなかで死んでいったように。

 いかなる力も持たぬ無力なゴダロ一家が、次々と襲い掛かる災厄に嘲笑われながら、それでもささやかなしあわせに支えられて生き抜いているように。

 それから、「グラチウスなど若者にすぎぬ」というロカンドラスの発言も興味深い。

 前巻でグインも言っていましたが、グラチウスはもし世界を手に入れてしまったらそれをどうするつもりなのでしょうか?

 偉大な力を持つ黒魔道師でありながら、世界征服などという子どもじみた夢を捨てようとしないかれのその姿はどこかイシュトヴァーンを思わせます。

 「王様になりたい」と遮二無二望んでいたものの、いざ実際に王の地位に就くとなにをしてよいのかわからないイシュトヴァーンを。

 自分は運命の先手を取ることができると信じる果敢さをおそらくは「若さ」というのでしょう。

 さて、物語はいよいよ急展開を見せますが、例によってちょうどいいところで終わっているので、次巻の刊行が待たれるところです。